武徳元年(618年)、永安郡王に封ぜられた。陝州総管・鴻臚寺卿を歴任したが、罪をえて官位を奪われた。
武徳2年(619年)、劉武周が太原を攻撃すると、夏県の呂崇茂が呼応して唐にそむいた。孝基は行軍総管としてこれを攻撃したが、尉遅敬徳に敗れて、工部尚書の独孤懐恩・内史侍郎の唐倹・陝州総管の于筠らとともに捕らえられた。逃亡をはかって失敗し、殺害された。太原が平定された後、死体は取り戻されないまま、葬儀がおこなわれ、左衛大将軍の位を追贈された。諡を壮といった。
子がなく、兄の李韶の子の李道立(江夏郡王李道宗の弟)が跡を継いで高平郡王に封ぜられたが、のちに高平県公に降格され、陳州刺史に終わった。