李家如宥 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 江戸時代生誕 慶長10年(1605年)[1]死没 延宝9年3月23日(1681年5月11日)別名 仮名:長右衛門号:一応閑斎 凡例李家如宥時代 江戸時代生誕 慶長10年(1605年)[1]死没 延宝9年3月23日(1681年5月11日)別名 仮名:長右衛門号:一応閑斎主君 毛利秀就→綱広藩 長州藩氏族 李家氏父母 父:李家元宥母:高橋隠岐守の娘(内藤元栄の養女)兄弟 如宥、就庵、等和、女(波多野就通室)、女(小幡就重室、伊藤就之室)、女(久芳光正室)、女(宇野信国室)妻 児玉丹後守の娘子 規宥テンプレートを表示 李家 如宥(りのいえ ゆきひろ/じょゆう)は、江戸時代の医師。毛利氏の家臣で、長州藩士(寺社組)。父は李氏朝鮮の出身で毛利氏に仕えた李家元宥。 慶長10年(1605年)、毛利氏家臣の李家元宥の長男として生まれる。父と共に江戸で毛利秀就に仕え、御番手を務めた。なお、如宥が江戸にいたのは9年間である。 当時、長州藩では医師が不足しており、如宥に医術の心得があることを知った秀就は、如宥を御医役とすることを父の元宥に伝えた。これを元宥も断れず了承し、如宥は秀就の命によって名を「閑斎」と号し、秀就の正室・喜佐姫(龍昌院)付きの御奥医者となった。 子の規宥に家督を譲って隠居し、延宝9年(1681年)3月23日、死去。享年77。 脚注 ↑ 延宝9年(1681年)に81歳で死去したという説もあり、その場合は慶長6年(1601年)生まれとなるが、父の李家元宥が天正17年(1589年)生まれであるため、如宥は慶長10年(1605年)の生まれであると思われる。 参考文献 『萩藩閥閲録』巻141「李家宗億」 岡部忠夫『萩藩諸家系譜』(マツノ書店、1999年復刻) 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。OCLC 703821998。全国書誌番号:73004060。 国立国会図書館デジタルコレクション Related Articles