李建成
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開皇9年(589年)、李淵と竇夫人(後に太穆皇后と追尊される)の間の長男として生まれた。小字(幼名)は毗沙門。
隋末に父の李淵が山西河東慰撫大使として盗賊の追捕にあたったとき、李建成は河東で留守を守った。大業13年(617年)、李淵が太原で反隋の兵を起こすと、左領軍大都督に任じられ、隴西郡公に封じられた。このとき、李建成は左軍を統轄し、弟の李世民は右軍を統轄することとなった。軍を南下させると、西河を攻略し、長安(大興城)を平定した。恭帝が即位すると、撫軍大将軍・東討元帥となり、王世充と戦い、尚書令に任じられた。李淵が恭帝から禅譲を受けて帝位につくと、皇太子に立てられた。将軍の桑顕和とともに司竹の群盗を討ち、平定した。涼州の安興貴が李軌を捕らえて降伏を申し出ると、原州でその応接にあたった。稽胡の劉仚成が辺境を侵すと、鄜州でこれを撃破した。武徳6年(623年)、李元吉とともに河北の劉黒闥を攻撃し、これを捕らえた。
隋末唐初の戦乱にあって、弟の李世民の戦功がめざましく、李建成は太子位を奪われることを恐れて、太子中允の王珪や太子洗馬の魏徴らを任用して謀士とした。張婕妤や尹徳妃ら後宮の妃嬪と結んで、たびたび李世民を父に誣告し陥れようとした。また驍勇の士や長安の悪少年を募って護衛とし、長林門に駐屯させて、長林兵と号した。武徳7年(624年)、慶州総管楊文幹が徴募した兵を長安に送らせ、これに乗じて兵変を起こそうとしたが、事前に情報が漏れたため、李淵による譴責を受けた。武徳9年(626年)、突厥が辺境を侵した機会に乗じて、李元吉を北伐のためといって推薦し、その兵をもって兵変を起こそうとした。李元吉とともに宮廷に参内する途中、玄武門で李世民の兵に攻撃され、李世民の引いた弓に射られて殺された。
李建成の5人の男子は、事件に連座して処刑された。詔により李建成の属籍は除かれた。
太宗が即位すると、息王に追封され、諡を隠とし、諸侯の礼をもって改葬された。史書では隠太子と称された。