李彦頵
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はじめ商業を営んだ。後漢の天福12年(947年)、郭威が大名府に駐屯すると、彦頵は側近に置かれた。後周の広順年間、綾錦副使・榷易使を歴任した。顕徳元年(954年)、世宗柴栄が即位すると、彦頵は世宗と旧交があったことから、内客省使に抜擢された。ほどなく知相州軍州事となった[1]。顕徳2年(955年)、延州節度留後に転じた[2]。着任すると、すこぶる殖財に意を用いて、利益を図り、諸民族の財産を侵奪したので、民心を騒がせた。顕徳3年(956年)、世宗が南征の軍を起こすと、北方民族が部衆を集めて、延州を包囲した。彦頵は籠城して、隣州に救援を求め、援軍を頼りに包囲を解いた。彦頵は世宗に召還されて開封府に赴き、委曲を尽くして弁明したので、責めを負わなかった。ほどなく西都水南都巡検使となった。知泗州軍州事をつとめ、横海軍節度留後に転じた。彦頵は着任すると、その処置は決まりに反しており、民衆にいやしまれた。顕徳6年(959年)秋、交代を受けて開封府に帰り、病没した。享年は52[3]。