李従温
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後唐の明宗李嗣源の甥にあたる。李嗣源の地位が低かったとき、従温は御者の仕事をしていた。のちに李嗣源の養子となった。李嗣源が節度使を歴任すると、従温は牙校に任じられ、厩と倉庫をつかさどるよう命じられた[1]。
後唐の同光元年(923年)、従温は銀青光禄大夫・検校右散騎常侍に任じられた。検校司空を加えられ、北都副留守をつとめた[1]。天成3年(928年)[3]、従温は安国軍節度使・検校司徒に転じた[1]。長興元年(930年)4月、入朝して左武衛上将軍となった[4]。6月、忠武軍節度使として出向した[5]。長興2年(931年)、河東節度使に転じた[6]。長興4年(933年)1月、天平軍節度使に任じられた。5月、兗王に封じられた。11月、義武軍節度使となり、北面行営招討副使を兼ねた。清泰元年(934年)、成徳軍節度使に移った。清泰2年(935年)、同平章事を加えられ、武寧軍節度使に移った。清泰3年(936年)、泰寧軍節度使に転じた[7][2]。
従温は乗輿や器服を多く作って自慢していた。一族や賓客が諫めたが、聞き入れなかったので、夫人の関氏が「従温は反乱を企んで、天子の法物を造っている」と、牙門で大呼した。従温は処断を恐れてそれらを破壊した[8][2]。
後晋の天福2年(937年)、従温は侍中を加えられた[8]。天福5年(940年)、再び武寧軍節度使となった[9]。天福7年(942年)、中書令を兼ねた。天福8年(943年)、再び忠武軍節度使・開府儀同三司となり、趙国公に封じられた。開運2年(945年)、河陽三城節度使に転じた。開運3年(946年)2月、在任のまま死去した。享年は63。太師の位を追贈され、隴西郡王に追封された[8][2]。