李従璋
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後唐の明宗李嗣源の甥にあたる。若くして騎射を得意とし、李嗣源に従って黄河で歴戦し、後梁平定に功績を挙げた[1][2]。後唐の同光2年(924年)、銀青光禄大夫・検校右散騎常侍となり、御史大夫を兼ねた[3]。同光4年(926年)、魏州の反乱軍が李嗣源を迎えると、従璋は軍を率いて鎮州から邢州を過ぎようとしたところ、邢州の人に留後に立てられた。天成元年(同年)、明宗(李嗣源)が即位すると、従璋は奉聖軍左廂都指揮使に任じられた[1][2]。8月、饒州刺史に転じ、大内皇城使をつとめた[4]。天成2年(927年)[5]、検校司徒・彰国軍節度使を加えられ、竭忠建策興復功臣の号を賜った。まもなく韃靼諸部が侵入してくると、従璋は麾下を率いて出征し、これを撃破した[1]。天成3年(928年)2月、義成軍節度使に転じた[6]。長興元年(930年)5月、入朝して右驍衛上将軍となった[7]。10月、保義軍節度使として出向した[8]。長興2年(931年)5月、河中節度使に転じた。長興3年(932年)、検校太傅を加えられ、忠勤静理崇義功臣の号を賜った。長興4年(933年)5月、洋王に封じられた。閔帝が即位すると、ほどなく従璋は潞王李従珂に代わって鳳翔節度使に任じられたが、李従珂が挙兵して洛陽に入ると、その人事は取りやめになった。後晋の天福元年(936年)12月、威勝軍節度使となり、隴西郡公に降封された。天福2年(937年)9月、在任のまま死去した。享年は51。太師の位を追贈された[9][2]。