李徳シュウ

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李 徳珫(り とくしゅう、生年不詳 - 945年)は、末から五代十国時代にかけての軍人本貫応州金城県[1]

若くして騎射を得意とし、河東節度使の李克用に仕えて偏校となった。のちの諸将の多くがかれに兄事し、「李七哥」と呼ばれた。晋王李存勗に従って潞州・柏郷・徳勝口で戦い、いずれも軍功があり、検校尚書左僕射を加えられた[1]

後唐天成3年(928年)、検校司空となり、蔚州刺史をつとめた。長興元年(930年)、雄武軍節度・秦成階等州観察処置等使に任じられ、検校司徒を加えられた[1]。長興2年(931年)6月、義武軍節度使に転じ、北面行営招討副使を兼ねた[2]応順元年(934年)、北都留守となり、河東節度使をつとめた[3]清泰2年(935年)、右龍武軍統軍から涇州節度使となった[4]

後晋天福3年(938年)、建雄軍節度使となり、同平章事を加えられた[5]。天福5年(940年)、北都留守となった[6]。天福6年(941年)、開封尹となり、東都留守をつとめた[7]。天福7年(942年)、少帝が即位すると、徳珫は広晋尹に転じ、検校太師を加えられた[1]。天福8年(943年)、再び涇州節度使となった[8]開運3年(946年)、静難軍節度使に転じた[9]。10月、邠州で病没した[10]

家族

  • 祖父:李晟
  • 父:李宗元

脚注

伝記資料

参考文献

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