李徳シュウ
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若くして騎射を得意とし、河東節度使の李克用に仕えて偏校となった。のちの諸将の多くがかれに兄事し、「李七哥」と呼ばれた。晋王李存勗に従って潞州・柏郷・徳勝口で戦い、いずれも軍功があり、検校尚書左僕射を加えられた[1]。
後唐の天成3年(928年)、検校司空となり、蔚州刺史をつとめた。長興元年(930年)、雄武軍節度・秦成階等州観察処置等使に任じられ、検校司徒を加えられた[1]。長興2年(931年)6月、義武軍節度使に転じ、北面行営招討副使を兼ねた[2]。応順元年(934年)、北都留守となり、河東節度使をつとめた[3]。清泰2年(935年)、右龍武軍統軍から涇州節度使となった[4]。
後晋の天福3年(938年)、建雄軍節度使となり、同平章事を加えられた[5]。天福5年(940年)、北都留守となった[6]。天福6年(941年)、開封尹となり、東都留守をつとめた[7]。天福7年(942年)、少帝が即位すると、徳珫は広晋尹に転じ、検校太師を加えられた[1]。天福8年(943年)、再び涇州節度使となった[8]。開運3年(946年)、静難軍節度使に転じた[9]。10月、邠州で病没した[10]。
家族
- 祖父:李晟
- 父:李宗元