李思安

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李 思安(り しあん、生年不詳 - 912年)は、末から後梁にかけての軍人は貞臣。本貫汴州陳留県張亭里[1]

経歴

はじめ汴州の将の楊彦洪に仕えて騎士となった。素手の武術を好み、20歳にならずして身長7尺に達し、時世に乗じて自らの力を振るいたいとの意志を抱いていた。中和3年(883年)、朱全忠が汴州に駐屯し、軍隊の閲兵をおこなうと、思安の雄偉を見て、名と字を与えた。思安は飛槊を得意とし、朱全忠の征戦に従うたびに、馬を馳せて敵陣を突破し、その厚さを測って帰陣した。朱全忠は思安の勇猛さを惜しんで、王虔裕を踏白将としてつけて思安の補佐を命じた[1]

黄巣秦宗権が連合すると、思安は率先して偵察に赴いた。黄巣が敗走すると、思安は部下100人あまりを率いて黄巣を追撃し、殺戮のかぎりを尽くした。ほどなく軍を率いて秦宗権を鄭州で襲撃し、都将の李唐賓が落馬したところを、思安が追う者を槊で刺して、李唐賓を助けた。また秦宗権と戦ったとき、蔡州の将の柳行実を生け捕りにした。その後、淮水を渡ると、天長高郵の2県を下した。さらに孫儒をはばみ、濠州に迫って、いずれも功績を挙げた。諸軍都指揮使に累進し、検校尚書左僕射を加えられた。ほどなく亳州刺史に任じられた[1]

後梁の開平元年(907年)春、思安は兵を率いて幽州劉仁恭を討ち、桑乾河に宿営した。多くを捕虜とし、盧龍軍に恐れられた。軍を返し、諸軍を率いて潞州を討つと、月を重ねて攻め落とせず、多くの被害を出した。太祖(朱全忠)の怒りを買い、敗戦の罪を問われて、その官爵を全て剥奪され、汴州の民戸に編入された。翌年に復帰し、再び兵を率いたが、記録されるような功績はなかった。太祖は思安が将軍としては勇猛だが、節度使として抜擢しようとすると、必ず敗北すると評した。乾化元年(911年)秋、思安は相州刺史となった。思安は節度使となれないことが面白くなく、統治に意欲を見せなかった。太祖の北征にあたって、斥候の誤りがあり、相州の塁壁が荒廃し、官庫が空になっていることが発覚した。乾化2年(912年)1月、思安は柳州司戸参軍に降格された。ほどなく思安は相州で死を賜った[2]

脚注

伝記資料

参考文献

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