李暉 (後周)
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弱冠にして龍驤軍に応募した。後晋の劉知遠が河東節度使となると、李暉は扈従を願い出て、河東牙将に任じられた。天福12年(947年)、後漢が華北を平定すると、李暉は検校司徒・大内皇城使に任じられた[1]。乾祐元年(948年)4月、宣徽南院使に転じた[2]。6月、河陽節度使となった[3]。乾祐2年(949年)、検校太傅を加えられた[4]。
後周の広順元年(951年)、太祖郭威が即位すると、李暉は同平章事を加えられた。この年、横海軍節度使に任じられた。顕徳元年(954年)、侍中を兼ねた。顕徳2年(955年)秋、世宗柴栄の誕生日に入朝し、静難軍節度使に転じた。顕徳5年(958年)、鳳翔節度使となった[1]。顕徳6年(959年)6月、鳳翔府で死去した[5]。中書令の位を追贈された[1]。