李棟
中華民国の司法官・法学者
From Wikipedia, the free encyclopedia
事績
司法官としての経歴
清末に日本へ留学し、1909年(宣統元年/明治42年)、明治大学法科を卒業した[3][注 2]。帰国後は、同年の己酉留学生卒業試験を受験して及第し、法政科挙人となる。翌1910年(宣統2年)の庚戌廷試では二等籤分となり、大理院で勤務した[1]。
中華民国成立後は北京政府に出仕した。1913年(民国2年)5月に山西高等審判庁推事署理となり、1915年(民国4年)3月、推事として正式任命を受けた。翌1915年(民国5年)1月、大理院及京師高等検察庁上士の位を授かり、同年10月、大理院推事に任命されている。その後、司法官懲戒委員会委員や司法部司長署理などもつとめた[4]。
蔣介石国民政府でも引き続き司法官として経歴を重ねた。1931年(民国20年)12月、最高法院東北分院推事署理となり、1935年(民国24年)2月から1937年(民国26年)5月まで江蘇高等法院第二分院庭長をつとめた[4]。
親日政権での活動
王克敏が中華民国臨時政府を創立すると、李棟はこれに直ちに参加し、1938年(民国27年)1月20日、河北高等法院院長に任命された[5]。翌1939年5月18日、河北省地方公務員懲戒委員会委員長を兼任している[6]。
1940年(民国29年)3月30日、臨時政府が南京国民政府(汪兆銘政権)に合流し、華北政務委員会となる。しかし李棟の地位に変動は無く、そのまま河北高等法院院長に重任し、汪兆銘政権崩壊までこの地位にあったと見られる。なお、臨時政府や華北政務委員会が主宰した全ての孔子大祭(春丁祀孔・秋丁祀孔) [注 3]において糾儀官をつとめた唯一の人物であった。
汪兆銘政権崩壊後、李棟は漢奸として蔣介石国民政府に摘発される。1946年(民国35年)5月8日、かつては自身が院長をつとめた河北高等法院において、禁固12年・公民権剥奪10年・(最低限の生活費を除く)全財産没収の判決を言い渡された[7]。その後の李の動向は不詳である。
著作
- 『民法』
- 『強制執行』
- 『華洋訴訟』