李漢超
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経歴
はじめ後唐の范延光に仕えたが、重用されなかった。次いで高行周に仕えたが、やはり信任されなかった。柴栄(後の後周の世宗)が澶州に駐屯すると、李漢超はようやく認められて権限を委ねられた。世宗が即位すると、殿前指揮使に任じられ、殿前都虞候に累進した。
宋が建国されると、散指揮都指揮使に転じ、綿州刺史を兼ねた。控鶴軍左廂都校に累進し、恩州団練使を兼ねた。建隆元年(960年)、李重進の乱の鎮圧に従軍した。建隆2年(961年)、斉州防禦使・関南巡検使に転じた。関南にあること17年、頌徳碑が立てられた。
覇州監軍の馬仁瑀との関係が険悪となり、太祖趙匡胤の調停により和解した。太平興国元年(976年)、関南巡検使のまま応州観察使・斉州通判に転じた。太平興国2年(977年)8月、屯所で死去した。太尉・忠武軍節度使の位を追贈された。
子女
- 李守恩
- 李守忠
伝記資料
- 『宋史』巻273 列伝第32