玄通ははじめ隋に仕え、鷹揚郎将を務めた。
大業13年(617年)、太原留守の李淵が隋への反乱を起こす。同年、李淵が長安へ進攻すると、玄通は配下を率いて帰順し、後に定州総管に任じられた。
武徳4年(621年)7月19日、竇建徳の残党である劉黒闥が唐への反乱を起こす。同年11月19日(622年1月6日)、劉黒闥は軍を率いて定州を攻撃・陥落させ、玄通を捕らえた。劉黒闥はその才能を高く評価し、配下の将軍として起用しようとしたが、玄通は嘆息して言った。「余は朝廷の厚恩を蒙り、東国において一方の軍府を統率した。孤城に援軍なく、ついに賊の手に落ちたが、今は人臣としての節を保ち、忠誠をもって国に報いるべきである。どうして志を屈し、逆賊の官職など受けられようか」。こうして固辞したため、劉黒闥は彼を拘禁した。
かつての部下の中に酒食を差し入れる者がいると、李玄通は言った。「諸君が余の窮状を哀れみ、酒食で慰めてくれるなら、共に大いに酔おうではないか」。宴が始まると、李玄通は監視の兵に告げた。「剣舞を披露して興を添えよう。剣を貸してほしい」。兵が刀を渡すと、舞い終わった彼は深く嘆息し、「大丈夫たる者、国の厚恩を受けながら、一方を鎮撫しておきながら守り切れず、何の面目あって生き永らえられようか」と叫び、自ら腹を切り裂いて絶命した。この報を聞いた唐の高祖(李淵)は痛惜の涙を流し、その子・李伏護を大将軍に任じた。