若くして驍勇で知られ護聖軍に属した。後晋の天福年間、杜重威が安重栄を宗城県で撃破した戦いで、進卿は奮戦して功績を挙げ、興順軍校に抜擢された。後周が建国されると、長いあいだ霊寿県に駐屯した。虎捷軍左廂都指揮使に転じた。顕徳元年(954年)、世宗の下で高平の戦いに参戦し、鉄騎軍左廂都指揮使に転じた。殿前左班都虞候を経て、内殿直都虞候に転じた。
宋が建国されると、貴州刺史に任じられた。鉄騎軍左廂都指揮使に転じ、乾州団練使を兼ねた。乾徳元年(963年)、控鶴軍左廂都指揮使となり、漢州団練使に転じた。乾徳2年(964年)、虎捷軍左廂都指揮使となり、澄州団練使を兼ねた。この年の冬、後蜀の征討に参戦し、帰州路行営歩軍都指揮使となって巫山寨を落とし、夔州と万州を平定した。後蜀が滅ぶと、功績により侍衛親軍歩軍都虞候となり、保順軍節度使を兼ねた。開宝2年(969年)、趙匡胤が北漢に親征すると、進卿は開封府にとどまって京都巡検をつとめた。遠征軍が帰還すると、進卿は侍衛親軍歩軍都虞候となった。開宝6年(973年)、侍衛親軍歩軍都指揮使となり、静江軍節度使を兼ね、死去した。享年は59。侍中の位を追贈された。