村上久米太郎
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愛媛県越智郡津島村(現今治市吉海)に生まれた。小学校卒業後は農業に従事し、徴兵で18年間軍隊生活を送り、1925年奉天守備隊員を最後に除隊。その後、旅順や大連でも働いた。

吉林省の事務官時代の1934年8月30日に、ハルビン発新京行きの夜行列車で匪賊の襲撃に遭遇し、乗り合わせた外国人2人を含む9人が人質となって監禁されたときに、救助の日本軍捜索隊の「日本人はいるか?」の呼び声に、匪賊は人質たちに答えるなと命令したが、村上は「日本人ここにあり」と叫び、それを聞いて捜索隊が突入し全員が救助された。
村上はこの際、顎を撃たれたが、人質のアメリカ人二人のうち一人はメトロ・ゴールドウィン・メイヤーの社員であり、同社社長のアーサー・ローエルは外務大臣広田弘毅に謝辞を寄せ、満洲国は勲五位景雲章を贈り[1]、犠牲となるを厭わなかった勇気を称えた[2]。日本政府からも紅綬褒章が授与された[3]。
戦後は愛媛県松山市に帰り、1958年1月26日に亡くなった。著書に『日本人こゝにあり』があり、復刻版も出版されている[4][5]。
