村上水軍(後期)の初代としては村上義弘の名が知られており、この義弘を村上備中に比定する向きがあり、一部では村上備中・備中入道を使わず村上義弘として記述する二次資料もある。吉豊・顕長の呼称は因島村上氏・能島村上氏および各資料[1][2]に伝わる名である。歴史資料の備中入道という名称については子の村上吉資も備中守であることから吉資を比定する説もある[3]。しかし、1427年・1428年の資料[4]のあと、吉資と確認ができる1449年、その後の1462年の資料[4]と20年以上時代に開きがあることから吉資の父親すなわち初代因島村上氏であると受け取る方が理にかなうと思われる。