村井長寛は和歌山県士族・村井寛純の家に生まれ、旧姓は大崎である。のちに東京府豊多摩郡千駄ヶ谷村大字原宿の平民となり、砲兵将校として日清・日露期の軍務に関わった。明治4年に東京鎮台へ召され、翌5年に大尉となる。明治7年には第三砲隊長として佐賀の乱に出征し、続いて台湾出兵にも従軍して正七位に叙された。その後は砲兵第六大隊第一小隊長となり、西南戦争に参加した。
明治11年に勲五等、12年に少佐となり、近衛砲兵大隊長を務めた。明治13年頃には従六位となり、明治17年には大山巌の欧州視察に随行して中佐となる。翌18年に帰国後、イタリア・ロシア・オーストリア・フランスなどから勲章を受け、砲兵局次長に就任した。
明治20年に大佐、23年に従五位となり、明治28年4月には少将へ昇進して第一軍砲兵部長として日清戦争に従軍した。同年8月、台湾総督府作戦部砲兵部長、続いて同府陸軍局砲兵部長を務めた。明治29年には東京湾要塞司令官となり、その後明治32年ごろ東部都督部参謀長となって勲二等を授章した。
明治34年5月に中将となり予備役に編入されたが、特旨により正四位に叙された。復虎会会長(和歌山出身の軍人会)や千駄ヶ谷慰兵会総裁を務めたことも知られている。明治38年1月に再び東京湾要塞司令官に補されたが、中風を患い、同年4月6日、神奈川県三浦郡横須賀の湘南病院で死去した。
家族では、二女フエが陸軍少将原田二郎(原田良太郎二男)に嫁した。