村田惇
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本籍静岡県[1][2][5]。江戸で幕臣・高野勘四郎尹元の二男として生まれ、村田政の養子となった[1][3]。
明治3年(1870年)9月より沼津兵学校で資業生(第6期)として学び[6]、明治4年(1871年)1月、沼津兵学校から貢進生として大阪兵学寮幼年学舎に編入[1][3]。1875年(明治8年)12月、陸軍士官学校(旧2期)に入学し、1879年(明治12年)2月、砲兵少尉に任官[1][3][7]。同年12月、陸士砲兵科を卒業し山砲兵第4大隊付となった[1]。
1882年(明治15年)、陸士教官に就任し、参謀本部長伝令使、フランス・イタリア留学[3]、陸軍砲兵射的学校教官などを歴任し、1891年(明治24年)11月、砲兵少佐に昇進[1]。1893年(明治26年)11月から1897年(明治30年)10月まで参謀本部副官を務め、この間、大本営管理部長、第2軍副官(日清戦争出征)を兼務した[1][2][3][5]。1895年(明治28年)3月、砲兵中佐に進級[1]。
1897年(明治30年)10月、砲兵大佐に進級し[5]第4師団参謀長に就任[1]。1898年(明治31年)5月、東宮武官となる[1]。翌年4月から1902年(明治35年)8月までロシア公使館付として勤務した[1]。
1902年5月、陸軍少将に昇進[1][5]。参謀本部付を経て、同年12月、佐世保要塞司令官に就任[1][2][5]。大本営幕僚付(外国係)、韓国統監府付などを経て、1909年(明治42年)8月、陸軍中将に進み築城部本部長となった[1][2][5]。1914年(大正3年)5月に待命、同年8月、予備役に編入となった[1][2][5]。