村田正太
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- 1884年10月5日 高知県香美郡野市町(現香南市)に生まれる
- 1900年9月 中央大学入学
- 1903年7月 同校卒業、東京外国語学校ドイツ語学科入学
- 1906年 同校卒業
- 1910年 第一高等学校入学
- 1912年 東京帝国大学医学部入学
- 1917年 同大学卒業 1918年 東京帝国大学伝染病研究所助手
- 1919年 学術調査のため中国と満州に出張
- 1921年 内務省衛生局勤務。梅毒に関する研究を委託される
- 1926年 大阪府外島保養院院長事務取扱
- 1927年 同所長兼院長
- 1928年 光田健輔らと共に日本らい学会を創設
- 1929年 第2回らい学会を大阪にて開催(世話人)
- 1930年 第3回らい学会を大阪にて開催(世話人)
- 1932年 第5回らい学会を大阪にて開催(世話人)
- 1932年 叙正六位
- 1933年 大阪府外島保養院院長を免ぜられる
- 1966年 日本らい学会名誉会員に推薦される
- 1974年12月20日 逝去
生涯
法律を勉強していた時に知った女性がらいに罹患し、生涯らいに尽そうと決意した。光田健輔を紹介され、同氏の指示をうけ、医学の道に進む。東京伝染病研究所では、梅毒血清反応を研究。村田反応を創設した。大阪府外島保養院院長席が空席をなり、村田が起用された。大正15年(1926年)着任。同院は全く闇黒時代で、患者は博打を打ち、風紀は乱れていた。彼は食費13銭を一挙に22銭に上げ、院内の自治を認めたので、今まで虐げられていた患者は院長を慈父と呼んだ。しかし、患者内に急進派と保守派の対立が激化してきた。昭和7年(1932年)、職員に共産党員が入り活動を始めた。院長の、患者の自治を尊重する姿勢もアカと誤解されて、1933年8月院長が不在時に所轄の警察署の手入れが始まり、「外島事件」の始まりとなる。院内の平和のために、急進派患者20名を、言い含め、私金10円をもたせ、放出する。それが府警はじめメディアに烈しい批判を浴びる。村田自身も特別高等警察の厳しい取り調べを受けた。東京大学出身の大阪大学教授らが彼を弁護したが、同年10月、村田は同院を去る。その後、神奈川県二宮町の自宅(借家)で研究を続けた[1]。
業績
村田正太顕彰碑
食費
- 外島保養院の食費と比較するために、昭和6年(1931年)の外の療養所の食費を掲載する。
| 名称 | 種別 | 定員 | 食費(1日) | 治療費(1日) |
|---|---|---|---|---|
| 慰廃園 | 組合立 | 81名 | 18銭 | 3.8銭 |
| 聖バルナバ病院 | 個人経営(英) | 300名 | 16.5銭 | 5.7銭 |
| 私立復生病院 | 財団法人 | 127名 | 20銭 | 6.6銭 |
| 身延深敬病院 | 財団法人 | 80名 | 17.6銭 | 2.1銭 |
| 熊本回春病院 | 財団法人(英) | 79名 | 48銭 | 19.5銭 |
| 待労院 | 組合立(伊) | 70名 | 14銭 | 6.8銭 |
| 公立らい療養所 | 15銭前後 | 5銭程度 |
外島保養院患者と村田正太
昭和6年春頃より面白からぬ思想が外島の楽園に入ってきた。之にかぶれた者は一つのグループ作り、病気の軽い有望な青年達を誘惑して自分たちの仲間に引き入れマルクスやエンゲルスの思想を吹き込み、そして反宗教の叫びをあげた。未だ宗教の味も知らない有為の青年を巧妙な手段で引き込み猛烈に運動した。そのために有為の青年たちは多数宗教団体を脱して、無神論者、唯物論者となって、宗教を攻撃する者も現れて来た。その中で最も多数の脱会者を出したのはキリスト教であった。(略)昭和5,6年のことであったと思う。大阪医大で日本らい学会が開催された時に、村田院長先生が「君たちの方で社会にたいする願いがあるなら、書き出してみよ。僕が提出して説明してやるから」と理解ある親切なことを言ってくださった。(中略)協議の結果、7件の請願問題が出た。先生はそれを検討して、1件にして「社会にたいする私たちのお願い」を学会に提出してくださったことがある。村田先生は理想的な療養所を建てようと、建築技師を採用し、患者側にも希望を出すようにとの、早速設計委員会を作り毎月5,6回会合して方眼紙、30余枚の設計図を送った。先生留守中に院長先生辞職の噂がでた。新聞にも出た。院長先生の辞職は入院者にとって心臓を刺されるような思いであった。この時、院長先生は全患者を礼拝堂に集めて辞職の件を簡単に話され、この問題は解決したから、一同安心するようにと話された。