1876年(明治9年)敦賀県の伝習生派遣事業を通じて、洋式染色法研究のため京都府立染色伝習所(染殿)へ派遣され中村喜一郎に師事。同所の教師でフランス リオンでジャガード織を学んだ佐倉常七とも親しくなり、製織技術やジャカード織機を習得した。その後、東京大学で化学や染色を講義していた山岡次郎に師事[1]。
1877年(明治10年)4月、士族14人が出資して福井市毛矢町に「福井織工会社」が作られ、義父 近良も参加し社長に就任。綾織、ハンカチーフの製織を開始[1]。
1885年(明治18年)11月、山岡次郎を介して、初めて桐生の機業家森山芳平[2]を訪ねる。森山に師事していた高力直寛が招聘されることになり、福井織工会社で3週間にわたる講習会が実施されたのが、福井における羽二重製織のはじまりとなる。
1896年(明治29年)6月6日、県織物組合により、市場調査のため、杉田定一とともに米国、ヨーロッパに派遣される。11月に杉田が帰国[3]した後も、ドイツなどの視察を継続して翌年帰国する。