杜悰
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経歴
杜式方の子として生まれた。蔭官により任用され、官を歴任して太子司議郎となった。元和9年(814年)、憲宗と郭貴妃のあいだの娘の岐陽公主を妻に迎え、銀青光禄大夫・殿中少監・駙馬都尉となった[3]。
官を重ねて司農寺卿に上った[3]。大和5年(831年)、京兆尹に転じた[4]。大和6年(832年)、御史大夫を兼ねた[5]。大和7年(833年)、検校礼部尚書[6]、鳳翔尹・鳳翔隴右節度使として出向した。母が死去したため、辞職して喪に服した[7]。大和8年(834年)、復帰して検校戸部尚書・忠武軍節度使に任じられた[8]。大和9年(835年)、陳許節度使となり[9]、兵部尚書を加えられた。開成2年(837年)、入朝して工部尚書・判戸部度支となった。妻の岐陽公主が薨去すると、杜悰は長らく文宗に面会しなかった[10]。開成3年(838年)、戸部尚書・判度支に転じた[7]。会昌元年(841年)、淮南節度使となった[11]。会昌4年(844年)、判度支のまま、尚書右僕射を代行し、門下侍郎を兼ね、同平章事となり、塩鉄転運使をつとめた[12]。ほどなく尚書左僕射を加えられた[7]。会昌5年(845年)、宰相から退任し[13]、剣南東川節度使として出向した。
大中2年(848年)、杜悰は剣南西川節度使に転じた[7]。大中3年(849年)[14]、先だって奪われていた吐蕃の維州を降した。のちに特進・検校司空・太子太傅・分司東都・上柱国となり、扶風郡開国公に封じられた。大中11年(857年)、本官のまま判東都尚書省事、御史大夫を兼ねた。東都留守・東都畿汝州都防禦使をつとめた[15]。尚書左僕射・諸道塩鉄転運使に転じた。咸通元年(860年)、同平章事となった[16]。尚書右僕射・門下侍郎に任じられた。咸通2年(861年)、尚書左僕射となった[17]。門下侍郎、同中書門下平章事を兼ねた[18]。咸通3年(862年)、百官を率いて懿宗に睿文明聖孝徳皇帝の徽号を奉った。司空を兼ねた[19]。司徒に転じた[18]。咸通4年(863年)、鳳翔節度使として出向した。のち荊南節度使に転じた[20]。太傅を加えられ、邠国公に封じられた[7][21]。咸通14年(873年)、黔州観察使の秦匡謀が南方の少数民族を討とうと図って、兵敗れて杜悰のもとに逃げ込んだ。杜悰はこれを囚えて弾劾した。勅命により秦匡謀を斬ることになった。杜悰はその死に驚いて、病にかかり死去した。享年は80。太師の位を追贈された[21]。