東京オーケストラ団

From Wikipedia, the free encyclopedia

東京オーケストラ団(とうきょうオーケストラだん)は、かつて東京にあった演奏団体。1910年(明治43年)に発足した東京フィルハーモニー会の管弦楽部として翌年から活動を開始し、その後独自の活動を続けて1923年(大正12年)まで存続した。メンバーによる客船での演奏は1941年(昭和16年)まで継続した。

東洋音楽学校創設者鈴木米次郎岩崎小弥太男爵の支援を受けて音楽鑑賞団体として設立した東京フィルハーモニー会は、発足の1910年7月に管弦楽部の部員15名を募集した[1]。部員には7円から15円の補助金が支給され、2年間アウグスト・ユンケルハインリヒ・ヴェルクマイスターの指導を受けるという触れ込みであった[2]。規定によれば入部資格は尋常小学校卒業以上で、16歳から25歳まで、そして一人で弦楽器と管楽器の2種類を習得する、というものだった。応募者は20余名あったがその多くは東洋音楽学校の卒業生、在校生であり、9月より2組に分けて両教授が東洋音楽学校の中で指導にあたることになった[1][2]。そのほかの指導者にはヴァイオリンに窪兼雅と田辺尚雄チェロ竹内平吉信時潔コントラバスに薗廣虎、トロンボーンに多忠基などがいた[3][1]

約1年後の1911年8月12日に行われた夏期講習会音楽演奏会では、記録に残る最初のオーケストラ演奏が行われ、グルックの『イフィゲニア序曲』などが奏された。11月27日の横浜孤児院慈善音楽会に参加した際に、「東京オーケストラ団」という名称が初めて用いられた[1]

ところが1912年(明治45年)に岩崎男爵と折り合いがつかず支援を打ち切られ、管弦楽部は解散し岩崎男爵から貸与されていた楽器も返還することになった[4][注釈 1]。しかし東京オーケストラ団はその後、東京フィルハーモニー会から離れて独自の活動を続けることになった[4]

演奏活動

1912年以降の東京オーケストラ団は、東洋音楽学校の卒業式や夏期講習会に出演するほか、学外の演奏会にも出演して活動を広げていった[5]。1916年からは東京音楽学校のヴァイオリン教師であるグスタフ・クローンの指導を受け、関西への演奏旅行も行った[4]。1922年(大正11年)には函館にも演奏旅行をしている[6]

演奏した曲目は交響曲よりも、モーツァルトフィガロの結婚』序曲、ビゼードニゼッティなどのオペラ抜粋、J・シュトラウスの舞曲、ワーグナータンホイザー』の行進曲といった小品が多く、民謡やポピュラー曲も取り上げられていた[5]

東京オーケストラ団の団員には毎月手当てが支給されていたが、その資金源は不明である[4]。しかし東洋音楽学校附属の組織として学校案内にも掲載されており、学校をあげて支援をしていたと考えられる[7][8]

1923年(大正12年)の関東大震災でピアノなどの楽器類の大部分が焼失したため、活動ができなくなった[4]。こうして東京オーケストラ団としての活動は途絶えたが、選抜メンバーが以前から客船の楽士として活躍していたので、メンバーの演奏活動は継続された[9]

客船上の演奏活動

参考文献

脚注

Related Articles

Wikiwand AI