東庄太郎
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1921年(大正10年)12月、伏見野砲兵第22連隊に現役入営。1930年(昭和5年)時点で本部附陸軍軍曹[1]。 1935年(昭和10年)、少尉候補者15期生として陸軍士官学校卒業。1936年3月、砲兵少尉。 1937年(昭和12年)2月、陸軍野戦砲兵学校に入学(高射砲学生)[2]。8月、千葉県柏市の高射砲第2連隊(第77部隊)に転じ、さらにその10日後、近衛師団第7高射砲隊に転じ、上海に上陸。12月1日、中尉[3]。のち1939年(昭和14年)末時点で高射砲第2連隊に復帰しており、第2中隊長[4]。1941年(昭和16年)、父島防空隊大隊長として同島守備[5]。
1944年(昭和19年)7月、第109師団高射砲隊長(八八式七糎野戦高射砲12門)として硫黄島に赴任。同年12月に少佐。
1945年(昭和20年)2月の米軍上陸後は北飛行場付近に展開していたが、対空射撃には射高不足として対地攻撃に用いられ、水平射撃陣地より師団司令部の直接援護を担当した。3月8日には敵戦車の大半を撃破し、13日までに1,900発全てを撃ち尽くした。14日夕方、栗林忠道中将は副官・藤田正善中尉を通して感状を贈呈。机の前に不動の姿勢で待っていた東は、「感状はありがたくお受けするが、何より弾丸が欲しい」と涙したという[6][7]。
翌15日ごろまでに高射砲隊は全滅し[6]、17日、戦死認定となる。