信太郡は平安時代後期に小野川を境目として東条と西条に分けられたが、その東条の部分に相当する。基本的には霞ヶ浦を東限とする小野川左岸地域を指すが、平安後期から現在に至るまで小野川の流路は大きな変更があったと言われ、正式な領域を確定させるのは困難である[1]。
西条が早くから信太荘として成立したのに対して、東条の荘園化は遅れ、東条荘として成立するのは鎌倉時代に入ってからとされる。現存する史料からは熊野神宮(現在の熊野速玉大社)の荘園で、地頭には平維幹の子・忠幹(東条五郎)を祖とする東条氏が就いた。少なくても室町時代の応永年間までは活動が確認できる[1]。
延元3年/暦応元年(1338年)に伊勢国を出航して東国に向かった北畠親房の船が漂着したのが東条荘内とされ、親房は神宮寺城次いで阿波崎城を拠点として南朝方勢力の結集を図るが、北朝側の反撃によって同年中に東条荘を追われて、小田氏を頼ることになった[1]。