東田幸樹
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東田 幸樹(ひがしだ こうき、1954年5月31日 - )は、日本の実業家。日本におけるドメイン名登録・管理を担う株式会社日本レジストリサービス(JPRS)の代表取締役社長[1]。インターネットの黎明期より、大学・研究機関を中心としたネットワーク接続の普及や運用体制の整備に関わり、インターネットが社会インフラとして普及する過程において、その基盤となるドメイン名の制度整備および運用に一貫して携わってきた。
1954年5月31日、北海道名寄市に生まれる。1977年に東京理科大学を卒業後、1978年4月から東京理科大学理学部に勤務。情報処理センター長補佐、理学部助教授として、学術研究と教育活動に従事[2][3]。
1985年に東京理科大学がBITNETに参加、ニューヨーク市立大学と相互接続した際の日本側の技術責任者として、ネットワーク構築に関わる。日本国内のBITNETはBITNETJPとなり、JUNET、HEPnet-Jなどと共に、日本のインターネットの源流の一つとなった[4]。
その後、BITNETJPとそのIPネットワークであるJOINの責任者として、日本ネットワークインフォメーションセンター(JNIC、1993年にJPNICに改称)の設立に関わり、同センターの運営委員、監事を歴任。公益法人設立準備委員会のメンバーとして、同センターの社団法人化を担当[5]。
インターネットの急速な広がりへの対応とドメイン名事業の安定的な継続・発展のため、JPNICの担当理事として、.jpドメイン名の管理を担う新会社設立の検討に参加。2000年に設立された株式会社日本レジストリサービス(JPRS)の代表取締役社長に就任[6]。
JPRS社長就任後、総務省情報通信審議会専門委員、公益社団法人経済同友会における委員会副委員長や幹事など、行政機関や業界団体の検討委員会等において、ドメイン名制度やインターネット基盤に関する議論に関与してきた。
略歴
学歴
- 1961年4月 北海道名寄市立名寄小学校 入学
- 1967年3月 北海道名寄市立名寄小学校 卒業
- 1967年4月 北海道名寄市立東中学校 入学
- 1968年4月 神奈川県茅ヶ崎市立松波中学校 転入学
- 1968年9月 神奈川県茅ヶ崎市立梅田中学校 転入学
- 1970年3月 神奈川県茅ヶ崎市立梅田中学校 卒業
- 1970年4月 神奈川県立茅ヶ崎北陵高等学校 入学
- 1973年3月 神奈川県立茅ヶ崎北陵高等学校 卒業
- 1973年4月 東京理科大学理学部第一部応用数学科 入学
- 1977年3月 東京理科大学理学部第一部応用数学科 卒業
職歴
- 1978年4月 東京理科大学理学部応用数学科技術員
- 1996年10月 東京理科大学 理学部 助教授(至2001年3月31日)
- 2000年12月 株式会社日本レジストリサービス(JPRS)代表取締役社長(現職)
委員・理事歴
- 1991年12月~1997年3月 任意団体JPNIC 運営委員
- 1997年3月~2001年11月8日 社団法人JPNIC 理事
- 1998年5月~2001年2月28日 社団法人JPNIC 事務局長
- 1999年1月~2001年1月26日 社団法人JPNIC 副理事長
- 2001年3月~2007年1月16日 総務省 情報通信審議会専門委員
- 2014年4月~2015年3月 公益社団法人経済同友会 科学技術・イノベーション委員会 副委員長
- 2016年6月~2017年5月 公益社団法人経済同友会 新産業革命と社会的インパクト委員会 副委員長
- 2017年4月~2025年4月 公益社団法人経済同友会 幹事
受賞歴
- 2013年 東京理科大学 理窓会 第16回「坊っちゃん賞」
エピソード
BITNET接続と規制撤廃への功績
1985年4月30日、東京理科大学はニューヨーク市立大学(CUNY)と専用回線を通じて接続し、アメリカの学術ネットワーク「BITNET(The Because It's Time Network)」に参加した。BITNETは、主にメインフレームコンピューターを相互接続し、電子メール、ファイル転送、チャット、メーリングリストなどを提供する当時画期的なネットワークであった。このプロジェクトにおいて、東田幸樹は日本側の技術責任者として重要な役割を果たした[7]。
当時、日本国内では専用回線の利用において契約者以外の使用を禁じる法律が存在しており、この規制が学術ネットワークの拡大を阻む要因となっていたが、東田は、非営利の学術ネットワークは日本の学術発展に不可欠であるとして、東京理科大学の理事長橘髙重義の協力を得て国内のBITNET普及に尽力。この結果、日本国内の学術機関も次々と参加し、1992年時点で約100以上の大学や研究所が接続されるに至った[8]。
学術ネットワークの普及により、1台のメインフレームを数千人から数万人が利用可能となり、国内では約30万人に及ぶ学術関係者や学生が、BITNET経由で電子メールなどのサービスを利用できる環境が整備され、学術活動の促進に寄与した。この接続は、その後の国内外の学術ネットワーク構築やインターネット黎明期における技術的基盤形成に影響を与えた[9]。
任意団体JPNIC設立への貢献
JPドメイン名の登録管理は、1991年12月1日にJNIC(Japan Network Information Center)が設立されたことにより、それまでjunet-adminが担っていたドメイン名登録業務をJNICへ移行した。JNICは村井純がセンター長を務め、平原正樹が運営委員長として発足したが、その運営は大学の研究者や教員によるボランタリーベースで行われていた。しかし、インターネットが普及するにつれ、JPドメイン名の登録管理業務などに伴う運営コストが増大し、これを合理的・安定的に管理するため、例えば社団法人のような形態に組織を再編成する必要が生じた[10]。
この再編成の過程で、JNIC運営委員の一人であり、ネットワーク関連団体の組織化経験を持つ東田が平原から協力を求められ、JNICの組織化の具体的な作業を平原、高田広章、東田の3名が担当することとなった。高田は後に「暑い夏の日、東京大学大型計算機センターの一室で、東田幸樹、平原正樹の両氏と共に、現在の社団法人JPNICの前身である任意団体JPNICの規約を起草するためのミーティングを行ったことが特に印象に残っている」と回想している[11]。
任意団体JPNICは1993年4月9日に正式に設立され、その後社団法人へ移行。現在も日本におけるインターネットの基盤運営を支える組織としてその役割を担っている[12]。
東京理科大学入学試験の合格発表における業績
1995年2月13日、東京理科大学は日本で初めてインターネットを利用した大学入試の合格発表を実施した。このプロジェクトは東京理科大学情報処理センターの一員であった東田を中心に進められた。この試みについては、同年2月11日付の毎日新聞、2月14日付の日本経済新聞でも報じられ、「インターネットで『サクラ、サク』」と表現されるなど、その利便性が注目を集めた[13]。
翌1996年にもインターネットによる合格発表が実施されたが、インターネット利用者の急増により、2月3日の合格発表時には1時間で1400件のアクセスが集中し、一時接続困難な状態となった。その後、産経新聞や毎日新聞など複数のメディアがこの状況を報じ、特に産経新聞では「21世紀には掲示板での胴上げシーンは見られなくなるかもしれない」というコメントが掲載された[14]。
東京理科大学における学生によるホームページ公開の取り組み
1995年4月に東京理科大学では、情報処理センターに所属する東田と山本芳人の主導により、全学部の新入生約5000名にインターネットアカウントを付与し、日本国内で初めて学生が自由にホームページをインターネット上に公開できる環境が整備された。また、同大学では情報作成方法に関する授業を行い、学生たちに情報発信のスキルを教授した。この取り組みは薬学部、理学部、工学部を含む21講座で展開され、年間約2000名の学生が履修した[15]。
特に積極的な学生約700名が自身のホームページを公開し、内容のユニークさや幅広さから社会的に注目を浴びた。1996年6月17日付の日本経済新聞の社説「健全な教育の情報化に社会の監視を」では、東京理科大学における取り組みについて「700人以上の学生が個人のホームページを持ち、人気のホームページでは週に10万件以上のアクセスがある」と報じられた。この社説では情報技術の可能性と共に、情報化社会がもたらす課題についても言及されている。[16]。
ジャパンICANNフォーラムへの貢献
2000年、ICANNが世界各地のAt-Large会員(一般会員)による投票で5人のICANN理事を選ぶ制度を発表した。この選挙に先立ち、ICANNはAt-Large会員の登録を開始し、選挙人となる条件を整備した。そこで、東田が事務局長を務める「ジャパンICANNフォーラム」は、日本も国際的なルール作りに積極的に参加することが求められているとして、国内の有志に向けてICANN一般会員への登録を呼び掛けた。[17]。
また、同年6月には経済団体連合会がこれに呼応し、日本がインターネット利用大国として国際ルール作りに積極的に関与し、その意見を反映させる必要があるとして、多くの企業に参加を促した[18]。
当初、アジア地域からの一般会員登録は欧米地域と比べて少なく、欧米主導の選挙となる懸念があった。そのため、アジアの意見を積極的に反映させるための活動が各地域で進められた。ジャパンICANNフォーラムもその一助として、大企業や団体と連携し、At-Large会員制度の登録を積極的に促した。その結果、日本は国別会員数で米国、ドイツに次ぐ第3位となり、アジア地域の声を届けることに成功した[19]。
さらに、2000年7月3日にはJPNIC(日本ネットワークインフォメーションセンター)の主催によりパネルディスカッションが行われ、「なぜICANNが必要か?」というテーマで議論が深められた。このパネルには、東田(JPNIC副理事長兼ジャパンICANNフォーラム事務局長)、会津泉(アジアネットワーク研究所代表)、坪田知己(日経デジタルコア設立事務局代表幹事)をはじめ、さまざまな専門家が参加し、インターネットガバナンスにおける市民と企業の役割について議論が交わされた。中でも東田は「本来インターネット利用者全員が選挙人であるべきだ。ICANNの当初目標は一般会員5000人とされていたが、より広範な参加が必要であり、最低でも100万人規模の登録が望まれる。そのため、企業や団体を通じた裾野拡大が重要」と述べ、ジャパンICANNフォーラムの活動方針を明確にした[20]。
2000年7月31日、ICANNはAt Large Membershipプログラムの登録を締め切り、最終的に158,000人を超える一般会員が登録されたことを発表した[21]。そして、同年10月1日から10月10日にかけてAt Large会員による理事選挙が実施され、10月10日に結果が公表された。この選挙では、新理事としてアジア・太平洋地域から加藤幹之が当選。ICANNは「世界の多様性を認め合う」という理念の達成を発表した[22]。
汎用JPドメイン名の企画・立案から実施の功績
東田はJPNICの設立当初から活動に関わり、1998年から2001年にかけて事務局長を務めた[23]。特に2001年に導入された汎用JPドメイン名の企画・立案から実施に至る過程で中心的な役割を果たし、「新JPドメイン名空間のサービス実装タスクフォース」では当初の主査を務めた[24]。
それまでのJPドメイン名は、組織専用のものであり、属性(CO.JPなど)ごとに厳格な登録資格が定められ、1組織で登録できるドメイン名は1つのみという制限があった。しかし、ドメイン名の個人利用や商業利用の需要が急増する中で、誰もが自由にいくつでも登録できる新JPドメイン名(汎用JPドメイン名)の導入が求められるようになった。東田は、新JPドメイン名の仕様として、「1. 登録数を制限しない」「2. ドメイン名の移転(譲渡)自由化」「3. SLD(セカンドレベルドメイン)での登録を可能にする」「4. 登録対象を制限しない(組織・個人を問わない)」を提案し、その実現に向けた議論や調整を進めた[25]。
また、不正登録や混乱を防ぐため、導入時には「優先登録申請」と「同時登録申請」といった仕組みを設けることで、公平性を保ちながら新JPドメイン名の円滑な導入を図ることにも寄与した[26]。
汎用JPドメイン名は、その高い利便性によって多くの利用者に受け入れられ、これを含めたJPドメイン名全体の登録件数は年々増加、2025年11月1日時点で180万件を超える規模になるまでに成長している[27]。
この取り組みは、日本国内におけるインターネットの普及促進や安全性向上、さらにはインターネット基盤の強化に大きく寄与し、日本のインターネット発展の歴史において重要な役割を果たした[28] [29]。