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市司

律令制下の都の東西市を管理し、交易・物価・度量衡・市場秩序を管掌した官司 From Wikipedia, the free encyclopedia

市司(いちのつかさ)は律令制において京職に属する機関。都の東西のそれぞれに設置され、東市司(ひがしのいちのつかさ/いちのつかさ[1])は左京職西市司(にしのいちのつかさ)は右京職に属していた。

歴史

ヤマト王権(大和朝廷)時代には、飛鳥海石榴市軽市河内餌香市阿斗桑市など、交通の要所に成立した市場を政治的に利用していたと考えられている。『日本書紀』には大化年間以降に「市司」と称される市の管理者が登場するが、それが王権が任じた官吏なのか、それとも王権から認められた市場の代表者なのかは不明である[2]

藤原京の建設と大宝律令の施行後にこれまで都とは関係なく置かれていた市場が都の中に集約され、東西の市が建設されたと考えられている。『扶桑略記』・『帝王編年記』には大宝3年(703年)に初めて東西の市が置かれたと記載されている。律令制の市司もこの時に整備されたと考えられる[2]。また、官設の市場とそれを管理する組織である市司は都にのみ置かれており、遷都のたびに市場そのものが市司やそこで商売を行う市人ごと新しい都へと移動することになっていた[3]

なお、唐では都だけではなく地方の州県にも市司が置かれていたのに対し、日本では地方諸国に官設の市場やそれを管理する市司が置かれておらず、国司も地方豪族(郡司を含む)が交通の要所などに設けた既存の市場に依拠していたと推測される(国府が市場の近くに設置されたり、国府の近くに人が集まって市場が形成された可能性もあるが、それらは制度としての官設市場とは異なるものである)[2]

職掌

市司は都の東西に置かれた市を監督し、財貨の交易、器物の真偽、度量の軽重、売買估価、不正行為の取締りなどを管掌した。市における犯罪や不正な取引を防止し、売買に用いる度量衡を管理するとともに、物価の調査や官司が必要とする物資の調達にも関与した。

関市令』では、欠陥品や偽物の販売を禁じ、横刀・槍・鞍・漆器などには製作者の姓名を記すこと、規格に適合しない品物を持ち主に返却すること、売買に用いる秤や度量器を毎年検査することなどが定められていた。『延喜式』でも、商人が沽価を超えて商品の価格を不当に引き上げた場合には、その場で処罰することとされている[4]

市司は市場における時価を調査し、商品の品質を上・中・下の3等に分けたうえで、実際の取引価格も上・中・下の3等に区分して估価簿を作成した。『関市令』では10日ごとに一簿を作り、3か月ごとに所属する京職へ提出することとされ、『延喜式』では毎月3通の沽価帳を作成し、太政官・京職・市司にそれぞれ1通を置く方式となった[4][5]。估価簿は官司が物資を購入する際に適正な価格を判断するための資料として利用されたと考えられている[6]。一方、估価は市司があらかじめ設定した価格ではなく、売り手と買い手の交渉によって成立した取引価格を集積したもので、蓄積された過去の価格が次第に取引の基準として参照されるようになったとする見解もある[4]

銭貨の流通も市司の管轄に含まれた。『続日本紀』和銅7年(714年)9月20日条では、官銭であることを知りながら受取りを拒む撰銭を禁じるとともに、濫銭を発見した場合には取引の当事者がこれを破壊し、市司へ送るよう命じている。市司に私鋳銭の見本を集めることで市場関係者への周知と摘発に役立て、和同開珎万年通宝に定められた法定価値を維持したものと考えられている[7]

長官である市正(いちのかみ)は、本来は正六位上相当の官であったが、五位の実務官人や、得業生文章生のうち成功に応じた者が任じられる場合もあった。また、市の治安維持に関係することから、検非違使の尉が兼任する例もみられた。

伴部として、売買価格の調査や官司による物資購入時の価格交渉を担当した価長、罪人の刑罰や市場内の取締りに関与した物部などが置かれた。東市司と西市司にはそれぞれ物部20人が所属しており、市で行われる刑罰の執行に従事したほか、商品の偽造、度量衡の不正、私鋳銭、不当な値上げなど、経済上の違法行為の取締りにもあたった可能性が指摘されている[8]

市人の統制

東西市で商業を専業とした市人は、市司が毎年作成する市人籍帳に登録され、「市籍人」とも称された。市人は市司の統摂を受け、延暦13年(794年)の平安京遷都に際しては、東西市や廛舎とともに新京へ移された。また、市で刑罰が執行される際には、市司によって召集され、その南門に列立して刑の執行を見せられた[9]

市人の交易は制度上一定の保護を受けていた。雑令皇親条は、皇親や五位以上の者が帳内・資人・家人・奴婢を派遣して市肆を固定的に占有し、商売を営むことを禁じている。弾正台の巡察でも、皇親や五位以上の従者が市人や百姓と利益を争っていないかが確認されており、有力者による市場への介入を制限することで、市人の営業を保護する仕組みが設けられていた[10]

平安時代に入ると、市司と市場関係者の間で対立が生じた。承和元年(834年)の太政官符によれば、近衛・兵衛に任じられた「市廛百姓」が市の周辺で強買や暴行を行い、主殿・主鷹・織部などの雑色や駈使も市司の官人を侮辱していた。この市廛百姓については市人と同一視する説があるが、市人とは別に東西市での交易を認められた下級官人とみる解釈もある[11]

貞観6年(864年)の太政官符では、市人が諸司や王臣家に仕え、高家の従者を称して徒党を組み、市司の召喚や統制に従わなくなったことが問題とされている。朝廷は市人が諸司・諸家に仕えることを禁じ、これを知りながら糺さない諸司・諸院・諸家の知事者と、隠れて諸司・諸家に仕える四位以下無位以上の者を違勅罪に処すと定めた。市人自身には京職で杖80を科すこととされた[12]。下級官人に続いて市人も有力な王臣家との関係を利用するようになり、市司による市場統制は次第に困難になったと考えられている[12]

職員

  • 正(正六位上相当)東西各一名
  • 佑(従七位下相当)東西各一名
  • 令史(大初位上相当)東西各一名
  • 史生 東西各二名(後各一名)
  • 価長 東西各五名
  • 物部 東西各二十名
  • 使部 東西各十名(後各六名)
  • 直丁 東西各一名

脚注

参考文献

関連項目

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