松井栄造
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静岡県浜松市出身。1931年(昭和6年)、浜松市立元城小学校時代に全国少年野球優勝大会(戸塚球場)で全国優勝投手となる。愛知県、静岡県の強豪校との激しいスカウト合戦の末、岐阜県の岐阜市立岐阜商業学校(現・岐阜県立岐阜商業高等学校)野球部の後援会長にスカウトされて岐阜商に進学する。1933年(昭和8年)、控え投手兼中堅手で春の甲子園に出場し、決勝戦で完封勝利を挙げ、岐阜県代表校として初の栄冠をもたらす。その後、1935年(昭和10年)春、1936年(昭和11年)夏の大会でも全国優勝し、岐阜商の黄金時代を築いた。その決め球である大きな縦のカーブは1m以上の落差があるといわれ、「三尺」のあだ名がついた。
5年生の夏から肩痛に悩まされ、進学した早稲田大学野球部では打者に転向。「1番左翼」で華麗なバッティングを見せて活躍し、神宮の森を沸かせた。リーグ通算65試合出場、202打数54安打、打率.267。
早稲田大学卒業後、社会人野球の強豪藤倉電線に就職するが、志願して陸軍に入営。歩兵第34連隊の小隊長として江南殲滅作戦に参加。1943年(昭和18年)5月28日午後10時10分、中国湖北省の宜昌県桃家坊で頭部貫通銃創で戦死。享年24。
小学校の一学年上に遠藤忠二郎(浜松一中~大東京~セネタース 投手)、小楠勝仁(浜松一中~早大捕手)が居り三人は同じ田町で家が近所同士だった。また二学年下には1936年、岐阜商業優勝メンバーの一塁手・森田定雄(阪急)が元城小の後輩となる。
財団法人野球体育博物館(現・公益財団法人野球殿堂博物館)の戦没野球人モニュメントにその名が刻まれている。また、岐阜市内の長良川球場には、松井の投球フォームを模した銅像が建てられている。