寺地集落の南方の丘陵(通称「名引山」)の尾根に東西300メートル、南北約500メートル - 800メートルにわたって構築された山城である[3][2]。築城年代は不明だが、上杉謙信時代(戦国時代末期)の典型的な山城である[3]。
標高170メートルの所に本曲輪があり、防御用の竪堀や空堀で仕切られていた。帯曲輪、袖曲輪で幾重にも固められている。長さ40メートル、深さ1.5メートル、幅1.5メートルの竪堀が1.5メートル間隔で7条残されている[3]。
天正の頃、不動山城(糸魚川市早川)の城主・山本寺孝長の二子である上杉虎之介が城将であった。天正6年(1578年)、謙信の死後、御館の乱で山本寺景定が上杉景虎方についたため、不動山城と共に上杉景勝に滅ぼされたとされている[3]。