松山守善
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熊本城城東の厩橋街出身[1]。脇坂覚太郎の三男として生まれ、1863年(文久3年)に松山家を再興して松山姓となり、7石3人扶持となる[4]。漢学と皇典を学ぶ。1866年(慶応2年)熊本藩の穿鑿所雇物書(書記)となり、第二次長州征討にも従軍した[4]。1869年(明治2年)林桜園の高弟・斎藤求三郎の門下に入り、敬神党にも加わった。1870年(明治3年)藩の職を辞する[5]。1873年(明治6年)に上京。福澤諭吉の著書や翻訳本などを読み、自由民権を考えるようになり、池松豊記・宮崎八郎らと交流した[6]。
1874年(明治7年)水戸学の崇拝の念から水戸に70日ほど滞在。同年10月には陸軍戸山学校に入るが12月に退校し、帰郷[7]。鹿児島の私学校に入ることを考えるが、宮崎八郎の願いにより取りやめ、民権派の学校・植木学校の設立に関与した[8]。1876年(明治9年)3月、熊本県裁判所十五等出仕となる[9]。同年10月の神風連の乱の際には、かつての敬神党の同志の遺体の検死に立ち会うこととなった[10]。同年11月、裁判所が司法省管轄となったことにより司法省十五等出仕となり、1877年(明治10年)には大分の日田区裁判所創設により日田に移った[10]。
1878年(明治11年)3月、司法省を辞し、代言人(弁護士)の試験を受け、7月に免許を交付された[11]。また、池松豊記らと民権結社・相愛社を設立し、副社長を務めた[11]。1889年(明治22年)5月、熊本市名誉参事会員に当選[12]。1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙において熊本6区から自由党公認で立候補して初当選する[13]。しかし、投票者のうち11人に選挙資格(直接国税納付額15円以上)が無かったことが判明し、7票差で次点であった小崎義明が長崎訴訟院に松山の当選無効の訴訟を起こす。長崎控訴院では松山の当選を有効とする判決が出たため、小崎は大審院に上告。大審院は原判決を破棄して広島控訴院に差し戻し、1891年(明治24年)5月14日に松山の当選無効の判決を言い渡した[14]。
1899年(明治32年)から1905年(明治38年)まで熊本弁護士会会長を務める[15]。1901年(明治34年)、松尾又雄の死去に伴う衆議院補選に立候補するが落選[16]。1902年(明治35年)の第7回衆議院議員総選挙では熊本県郡部から立憲政友会公認で立候補したが落選した[17]。1908年(明治41年)キリスト教の洗礼を受けた[3]。
脚注
- 1 2 『松山守善自叙伝』p.2。
- ↑ 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』610頁。
- 1 2 『松山守善自叙伝』p.28。
- 1 2 『松山守善自叙伝』p.53。
- ↑ 『松山守善自叙伝』p.3。
- ↑ 『松山守善自叙伝』p.5。
- ↑ 『松山守善自叙伝』p.6。
- ↑ 『松山守善自叙伝』p.7。
- ↑ 『松山守善自叙伝』p.9。
- 1 2 『松山守善自叙伝』p.11。
- 1 2 『松山守善自叙伝』p.14。
- ↑ 『松山守善自叙伝』p.19。
- ↑ 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』6頁。
- ↑ 『熊本県警察史 第1巻 (明治編)』熊本県警察本部、1979年、p.791-793。
- ↑ 『熊本県弁護士会史』熊本県弁護士会、1986年、p.56。
- ↑ 『松山守善自叙伝』p.25-26。
- ↑ 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』38頁。
- ↑ 『松山守善自叙伝』p.31。
- ↑ 『松山守善自叙伝』p.53。
参考文献
- 松山守善、松山しのぶ 著、畠田真一 校訂『松山守善自叙伝』熊本年鑑社、1964年。
- 日本国政調査会編『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』国政出版室、1977年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
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