松岡千代
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遺書
松岡は自殺した時点で数え年16歳、山陽女学校(後の山陽学園中学校・高等学校の前身)2年生であった[1]。
彼女は幼くして父母と死別しており、女学校の友人たちには、12歳の頃から現世に閉塞感を覚えていたと語り、「早く死んで廣い樂な世界へ行きたい」と話していたという[2]。
1906年1月26日、松岡は女学校の寄宿舎で亜砒酸による服毒自殺を遂げた[2]。
親しい同級生であった松原靜枝に宛てられた遺書が残されており、その内容の抜粋は新聞に掲載され、大きな社会的反響を呼んだ[2]。彼女の死は、人生に煩悶してのことと受け止められた[1][3]。『読売新聞』は、遺書とは別に残された文章「惱める少女」の抜粋を掲載した際に「其年齢と學級とに比較して大に文才の見るべきものあり實に惜しむべきの極みにこそ」と松岡の文才を評した[4]。
松岡の自殺は、3年前の藤村操が大きく影響したものであり、模倣者が40人ほどいた「哲学自殺」の一例とされるが[5]、当人は遺書で「我をして徒らに藤村操を學ぶものとなす勿れ」と述べており、自らの死を藤村らと同一視されることは望んでいなかった[2]。
我最愛の姉君よ........君よ我をあはれむとまでハ行かずともせめて自ら世をすてたる我罪を憎み給ひぞよ、さらバ/\再び我ハ君と結ぶべからず、幽明遠く隔て永久に見えざるべし、されど妾が君の妹たるべき事のみハ、永久にゆるしてよ、大なる悲觀ハ大なる樂觀に一致すと、實に然り、我ハ今決せんとするに及びて胸中何等の不安あることなし、最早この期に及びてハ、何事も云ふまじ、(中畧)汚れし世の塵ハ只一つも我心にとヾまることなし、たヾなつかしき姉君あることをのみ忘れざらん、さらバ永久にさめざる眠につかん、十月以來の本懷はじめてこ〻に達す、あ〻何等の愉快ぞ........痛絶........快絶(中畧)死ハ塵の世を遁るべき、只一すぢの道なるを、好機ありぬ今旣に我ハ決せり姉君よ、九十九年の條約を、破りし罪はゆるしてよ、(此書のうち入用のものあらバ君に參らせん)昨日ハ何を渡したるかそれすら覺えず、我をして徒らに藤村操を學ぶものとなす勿れ(下畧)
なつかしき姉上
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