松岡謙一郎
日本教育テレビ副社長、日本ケーブルテレビジョン社長
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来歴・人物
松岡洋右の長男としてワシントンで生まれる[1][2]。東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同盟通信に入社[2]。短期現役海軍主計科士官(7期)を志願し、1941年8月、海軍経理学校に入校し海軍主計中尉に任官[3]。同年12月、経理学校を卒業[3]。第一南遣艦隊司令部付となりカムラン湾に赴任[3]。第11根拠地隊付(サイゴン)、第2海軍航空工廠会計部勤務(木更津)を歴任[3]。1943年(昭和18年)6月、主計大尉に進む[3]。同年、海軍省軍務局第4課(大本営報道部)に転じ終戦を迎えた[3]。海軍報道部員として働き、李香蘭と浮き名を流したことでも知られる[2]
戦後は、岡村二一らがつくった写真新聞社代表を経て、開局する日本教育テレビ取締役編成局長に就任する[2]。
編成局長の時、編成課長には外画課長だった大川博の女婿、吉田治雄が就いた[4]。松岡は吉田に「外国映画は絶対に当たるから他局がまねしてくるはずだ。だから追随しようとしても作品が残っていないぐらいに買いまくってから、ゴールデンタイムでスタートしよう」と隠密理での買い付けを命じた[5]。役員の過半は映画放映に反対するが、それを抑えて、1966年(昭和41年)10月『日曜洋画劇場』(当初は土曜放送)として放送に及ぶと高視聴率を叩き出し、松岡はしてやったりの笑顔を浮かべた[5]。
編成担当として映画で当てた後、電波政策を扱う社長室担当となり、新局の免許獲得の責任者に就くことになる[6]。松岡は大川がNETを去った後の東映を代表しながらも、温厚な性格もあって会長の赤尾好夫と友好的に接することができ、71歳で退任するまで、代表取締役副社長を21年にわたって務めた[6]。このほか1971年(昭和46年)には、日本ケーブルテレビジョンの設立に参画し社長に就任した[7]。