上述のとおり、宗達の画は本来「荒磯屏風」と呼ばれており、「松島図屏風」ではなかった。「松島図屏風」と呼ばれるようになったのは酒井抱一の影響である。
抱一は、光琳に私淑し、光琳の画を広く世に知らしめた人物であるが、宗達と光琳の関係については詳しくなく、現在では有名な宗達の風神雷神図の存在を知らなかったと言われている。そのため、光琳の模写した画を勘違いしたか、あるいは「松と島の図」ということからか、「松島図屏風」と呼んだといわれる。これで光琳の画については「松島図屏風」の名が定着したが、さらにその手本である宗達の画もいつの間にか「松島図屏風」と呼ばれるようになった、と考えられている。
抱一は「松島図屏風」にはあまり関心を示さなかったと見られ、風神雷神図で行ったような、光琳の画の模写は行っていない。これは「松島図屏風」を「松島の画」と勘違いし、画題に面白みがない、と感じたため、という説がある。