松平親俊
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福釜松平家2代・松平親次の子。『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)によれば、親次は享禄3年(1530年)の宇利城の戦いで戦死したとする[1]。ただしこの戦いで戦死したのは福釜家初代の親盛であるともされ、『安城市史』では親次を大永元年(1521年)生まれ・天正3年(1575年)没とする[2]。
親俊は松平広忠、徳川家康に仕え、各地の戦いに従事して軍功を立てたという[1]。『徳川実紀』によれば、今川義元に命じられて徳川家康(当時は松平元康)が大高城に兵糧搬入を行った際、「松平左馬介親俊」は酒井正親・石川数正とともに先鋒を命じられ、大高・丸根・鷲津の諸城砦から離れた寺部城を攻めて織田方を引き付けた[3][注釈 2]。
天正3年(1575年)、長篠城主・奥平貞昌(のちの奥平信昌)が徳川家に降伏すると、徳川家から派遣されて長篠城に入り、籠城戦を戦うことになる(長篠の戦いも参照)[4]。
天正9年(1581年)6月、家康が遠江国二俣城に進発した際に同行する[1]。しかし、「鳥羽山の御陣所」(鳥羽山城)にて急病を発し、家康自らが薬を処方した上、福釜に帰された[1]。同年7月12日死去[1]。
『寛政譜』によれば、初代親盛から4代康親までは福釜の宝泉院を葬地としたという[5]。現代では宝泉院の西100mほどの場所にある「松平墓地(福釜城主墓域)」に、初代親盛から5代康盛[注釈 3]までの福釜松平家歴代の墓が移されている[6][注釈 4]。宝泉院には福釜松平家初代親盛・2代親次・3代親俊の肖像画があり、安城市指定の文化財となっている(指定名は「絹本著色 福釜松平三代像」)[4]。