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松浦巖

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松浦 巖(まつうら いわお、1921年9月1日 - 1980年11月28日)は、日本の実業家。兼松江商(現・兼松)社長を務めた。

概要 まつうら いわお 松浦 巖, 生誕 ...
まつうら いわお
松浦 巖
生誕 1921年9月1日
死没 1980年11月28日
国籍 日本の旗 日本
出身校 滋賀大学経済学部
(彦根高等商業学校)
一橋大学
(東京商科大学)
肩書き 兼松社長
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経歴

東京都出身[1]。

旧制神戸第一中学校(現・兵庫県立神戸高等学校)ではサッカー部に所属し、全国大会優勝を経験した。1942年に彦根高等商業学校(現・滋賀大学経済学部)を卒業したのち、東京商科大学(現・一橋大学)に進学した[2]。

1943年、学徒出陣により軍務に就き、同年12月に千葉県習志野の東部第9連隊に二等兵として入営した。その後、幹部候補生として騎兵学校に入り、戦争末期には本土防衛部隊の福島戦車中隊第二小隊長を務めた。1945年の終戦後に東京商科大学へ復学し、1947年9月に同大学経済学部を卒業した[1][3]。

同年10月、兼松に入社。1952年に食糧部へ配属され、以後長く食糧・穀物部門を歩んだ。1954年6月から1959年5月までアメリカに駐在し、ポートランドおよびニューヨークで勤務した[3]。

帰国後は食糧第二部第一課長などを務め、1961年には、タイから輸入するトウモロコシの品質改善と安定取引を目的とした「タイ・メイズ協定」の成立に携わった。また、食糧部門を持つ大手商社による飼料輸出入協会の設立にも中心的に関与した。その後、東京支社食糧第二部長を経て、1968年に札幌支店長に就任した[1][3]。

1970年2月からはオーストラリアに赴任し、兼松江商豪州社長、大洋州総支配人などを歴任した。海外駐在中の1971年11月に取締役、1974年5月に常務へ昇進。同年11月に帰国した後は、本社企画部門などを担当し、専務、1977年に副社長に就任し、経営中枢を担った。若くから将来の経営トップ候補と目され、社内外で「兼松のプリンス」と呼ばれていた[3]。

1978年6月、兼松江商社長に就任。当時の同社は、不動産投資の不振や関連会社の赤字などにより経営状態が悪化しており、松浦は経営再建を託された。社長就任後は「再建三カ年計画」を掲げ、関連会社の統廃合、本社機構の改革、人件費・経費の削減、不採算資産の整理などを進めた。また、同社として34年ぶりとなる無配を決定し、役員賞与の停止や役員報酬の削減などの合理化策を実施した[3]。

一方、松浦は以前から心疾患を抱えており、1960年代から心電図異常や高血圧が確認されていた。1970年代後半には心筋梗塞の症状が進行していたが、社長就任後も経営再建のため勤務を続けた。1980年11月28日未明、東京都狛江市の自宅で急逝した。59歳没。同年12月15日、青山葬儀所で社葬が営まれた[3]。

生涯

学生時代・軍歴

1921年9月1日、東京都に生まれる[1]。

旧制神戸第一中学校(現・兵庫県立神戸高等学校)ではサッカー部に所属し、学生選手として活躍した。1938年の全国中等学校蹴球大会で優勝した神戸一中の選手の一人であり、その後もサッカーに打ち込んだ。

1942年に彦根高等商業学校を卒業したのち、東京商科大学に進学した[2]。

1943年10月、学徒出陣により軍務に就き、同年12月に千葉県習志野の東部第9連隊へ二等兵として入営した。その後、幹部候補生となって騎兵学校で教育を受け、戦争末期には本土防衛部隊である富士部隊の福島戦車中隊第二小隊長を務め、終戦を迎えた[3]。

終戦後は東京商科大学に復学し、1947年9月に同大学経済学部を卒業した。大学ではサッカー部でも活動し、復学後には主将を務めた[1][3]。

1947年10月、兼松に入社した。1952年に食糧部へ配属され、その後1968年に札幌支店長となるまで、主として食糧部門を歩んだ[1][3]。

1954年6月から1959年5月までアメリカに駐在し、ポートランドおよびニューヨークで勤務した[3]。

帰国後は食糧第二部第一課長などを務めた。1961年頃には、タイから日本へ輸入されるトウモロコシをめぐり、日本側商社が協力して品質や取引条件の改善を図った「タイ・メイズ協定」の成立に関与した。また、大手商社の食糧部門が参加する飼料輸出入協会の設立にも携わり、業界内の協調を進めた[3]。

後に東京支社食糧第二部長となり、1968年に札幌支店長に就任した[1][3]。

海外勤務・役員就任

1970年2月から再び海外勤務となり、オーストラリアに駐在した。兼松江商豪州社長、大洋州総支配人などを務め、メルボルンやシドニーを拠点として同社の大洋州事業を統括した[3]。

海外駐在中の1971年11月に取締役に就任し、1974年5月には常務取締役に昇格した。同年11月に豪州勤務を終えたのち、本社で企画部門などを担当し、専務取締役に昇任、1977年に副社長を経て経営中枢を担うようになった[3]。

社内外では早くから将来の経営トップ候補とみられ、「兼松のプリンス」と呼ばれていた[3]。

兼松江商社長

1978年6月、兼松江商社長に就任した。大手総合商社の社長としては、戦後に入社した世代から初めて就任した人物とされる[3]。

当時の兼松江商は、第一次石油危機以前に取得した不動産の不良資産化や、関連会社の赤字などにより経営状態が悪化していた。前任社長であった清川正二は経営責任を取って退任し、松浦は会社再建を託されて社長に就いた[3]。

松浦は「再建三カ年計画」を掲げ、不採算資産や関連会社の整理、本社組織の改革、人件費・経費の削減などを進めた。また、兼松江商として34年ぶりとなる無配を決定し、役員賞与の停止や役員報酬の削減なども実施した[3]。

一方で、社員との交流を重視し、社長就任後も若手社員らと直接酒席を共にするなど、現場との接触を続けたとされる[3]。

死去

松浦には以前から心疾患があった。1964年の社内検診では高血圧と心電図の異常が確認され、その後も不整脈や虚血性心疾患の兆候がみられた。1970年代後半には心筋梗塞を示す症状が進行していたが、社長就任後も経営再建のため勤務を続けた[3]。

1980年11月27日にも通常通り勤務し、取材対応、金融機関との会談、決算説明、取引先との会食などを行った。翌28日午前3時過ぎ、東京都狛江市の自宅で容体が急変し、死去した。59歳没[3]。

同年12月15日、青山葬儀所で社葬が行われた[3]。

人物

学生時代からサッカーに打ち込み、サッカーにおけるチームプレーを仕事や組織運営にも重ね合わせて考えていたとされる[3]。

食糧部門時代には、商社同士が激しく競争する一方、業界全体の利益のために協力すべき分野では協調することを重視した[3]。

温厚な人物として若手時代には「仏の巖さん」と呼ばれた一方、社長就任後は経営再建のため厳しい合理化を実施した[3]。

脚注

参考文献

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