松浦里子
From Wikipedia, the free encyclopedia
松浦 里子 | |
|---|---|
|
成医会講習所時代(1881年12月)[1] | |
| 生誕 |
1861年6月22日 |
| 死没 | 1891年8月26日(30歳没) |
| 死因 | 肺結核 |
| 国籍 |
|
| 教育 | 成医会講習所 |
| 職業 | 看護師 |
| 活動期間 | 1886年 - 1891年 |
| 著名な実績 | 看護教育 |
| 医学関連経歴 | |
| 職業 | 看護師 |
| 所属 | 有志共立東京病院 |
松浦 里子(まつうら さとこ、1861年6月22日〈文久元年5月15日[2]〉 - 1891年〈明治24年〉8月26日[3])は、日本の看護師。医学博士の高木兼寛に抜擢され、成医会講習所(東京慈恵会医科大学の前身)で近代医学を学んだ後、日本最初の看護師学校である有志共立東京病院看護婦教育所(慈恵看護専門学校の前身)で、アメリカ人宣教師M.E. リード(Mary Ella Butler Reade)の後任として取締(看護婦の責任者・監督者)に就任し、短い生涯を看護教育に捧げた。別名は松浦里[4]、松浦さと[5]、松浦さと子[6]など。
1861年、江戸四谷仲町で誕生した[2][4]。当時の女子教育では最高といわれた東京女学校を経て、高木兼寛により本多銓子と共に見いだされ、成医会講習所に入学した[7]。日本の女子が近代医学を習得可能かを試す目的で、高木兼寛が2人を選抜したのである[4][5]。同講習所では里子は本多銓子共々、解剖実習を終えた後、平然と暗闇を帰って行くような女傑だったという[8]。
1884年(明治17年)、荻野吟子らと共に医術開業試験の前期試験を受験した。病弱の身を押しての受験であったが、結果は不合格であった[9]。翌1885年(明治18年)に生沢クノらと共に前期試験に再挑戦し、合格した[7][8]。後期試験に合格すれば、荻野吟子に次ぐ日本の女医第2号となるところが、それ以前から患っていた肺結核が悪化して受験を断念し[7][8]、成医会講習所も退学を強いられた[10]。高木兼寛はその境遇を深く同情し、里子を有志共立東京病院で十分に療養させた[7][8]。
病状が回復した頃、里子は医師志願から看護婦(看護師)志願に転向した[8]。その理由について大関和(大日本看護婦協会東京組合長)は「体がとても弱く、激しい学業に耐えられなかったため」と述べており[8]、日本女医会による『日本女医史』では「再度の受験失敗を恐れ」とされている[11]。
1886年(明治19年)9月、療養先の有志共立東京病院で看護婦補として採用され、同年12月には正式に看護婦として採用された[8]。翌1887年(明治20年)4月、看護婦教育所の初代取締のM.E. リードが帰国後、彼女の後任として取締に就任し、1891年まで看護教育にあたることとなった[12]。1888年(明治21年)には、教え子たち5名を正規看護婦として世に送り出した[2]。対外的な活動も大きく、同1888年には、荻野吟子を中心として結成された大日本婦人衛生会の幹事5人の中の1人として選ばれていた[2][13]。
1890年(明治23年)頃、病状が再度悪化した。1891年8月、肺結核により30歳で死去した[2][3]。高木は志半ばでの里子の死を深く悼み、里子を青山霊園に手厚く埋葬した[2]。その後も東京慈恵会医科大学同窓会では令和期に至るまで、高木や他の同校ゆかりの看護師たちと共に、看護師貢献者として墓参が行われている[14]。
