板倉由明
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神奈川県横浜市南区出身[1]。1958年横浜国立大学工学部を卒業後、製菓機械製造業の板倉製作所を経営し、1981年頃からその傍ら、戦史研究、特に南京事件や慰安婦問題、歴史教科書問題などに取り組んだ。南京事件論争では、中国側の被虐殺者を1~2万人と推定し、30万人説などの大虐殺を主張する論者を一貫して批判した。『南京戦史』(偕行社)編集委員。
南京事件については同じくある程度の虐殺を認める現代史家の秦郁彦とは論戦をしながらも親しい間柄であった。また、南京虐殺の完全否定派とも言うべき田中正明とも親交があった。中央公論社が田中正明による松井石根大将(南京攻略戦総司令官)の陣中日誌等の改竄を発見した際には、旧陸軍士官らの親交団体である偕行社での南京事件に関する証言収集に板倉が携わっていたことが理由となって、中央公論社からその鑑定(確認というべきか)を依頼された。(しばしば板倉自身が改竄を発見したかのように語られることがあるが、板倉が改竄を発見したわけではない。)内容を見た結果、板倉は改竄があることを認めざるをえず、本件を特集した雑誌『歴史と人物』1980年冬号に論考を寄せ、これを田中の意図的な改竄以外にありえないと断じた[2]。すなわち、板倉によれば、発見された改竄は、大きな脱落さらには書き加えまであり、また、小さな誤読や脱落のようなものでも全体の状況や解釈に影響を与えるものがあり、それらは全て「南京事件否定」の方向で行われていた、これは明らかに編者である田中正明の意図的行為であると断じ、細かな送り仮名や漢文表記まで含めれば異同自体はおよそ九百ヵ所以上に及んでいたとする。
板倉はもともと田中のグループと行動をともにしてきた[3]。板倉と田中は、しばしば同じ出版社の雑誌を舞台に活動し、南京事件については極力小規模化ないし否定する方向で捉える等、歴史認識自体については近い立場で、ジャーナリストの本多勝一や歴史家の洞富雄等が対極的な立場に立つと見られていた。しかし、この事件が起きるや、板倉は一転して田中を批判[3]、本多・洞らと同じ穴のムジナと非難した[4]。一方、洞の方では、板倉と田中こそ元々同穴の士とし、板倉が資料改竄事件に関する自身の意見はじきに棚上げにして、田中と元の協調関係を復活させようとしている節があることを指摘していた[4]。
宗教学者の菱木政晴は、板倉を、珍説を展開し、うんざりするような議論を繰り返すマニアックな人と評している[5]。ただし、南京事件時に中支那方面軍司令官であった松井石根が東京裁判で有罪となり、巣鴨拘置所の花山教誨師が松井が処刑される直前に南京事件について尋ねたところ、松井は事件を認め、自身は朝香宮をはじめ部下らを泣きながら叱ったという告白をしたという逸話について、従来は、ニューヨーク・タイムズのアベンド記者の松井石根が日本軍の規律回復に乗り出すとの1937年12月19日付けの報道や、同盟通信社の松本重治の『上海時代』の記述等から、これは1937年12月18日の慰霊祭の後のことと思われていたが、これに板倉は疑問を持ち、様々な根拠と共に松本本人に確認したところ、50日祭である1938年2月7日の上海派遣軍慰霊祭の後の記憶違いであったことを認める回答を得たとする[6]。これについては、他の歴史学者からも特段の異論の提示は見られておらず、業績と考えられる。なお、板倉本人は、このことを、したがって「南京虐殺は、事件発生直後にこのような叱責をしなければならないほどの大規模なものではなかった」という結論に結び付けている[6]。
1993年、南京事件に関連して日本兵の行った残虐行為について記した著書を出した東史郎他1名と出版社らが、行為の実行者と解されかねない人物から、それぞれの本を突き合わされれば、自分だと判断される可能性があるとして名誉棄損で訴えられた[7]。当時、板倉は南京事件に関する裁判で敗訴が相次ぐことに危機感を募らせ、勝てる裁判をしなければならないと語っていたという[7]。この裁判について、板倉は自身が原告に事件が本に書かれていることを教えた結果、起こったものだと雑誌『月曜評論』で述べ、この裁判の目的を原告の名誉回復だけでなく、南京大虐殺の虚構を明らかにすることだと位置づけている[7]。この頃、板倉と上杉千年は、東史郎の日記を高校教科書に一部引用した教科書出版社「一橋出版」に掲載したことに抗議、産経新聞は、上杉の「教科書である以上、裁判の結果が確定するまでは(略)引用を避けて欲しい」との談話を掲載、板倉は、出版社に8回以上のファックスや電話を入れ、「勝手にデモでもかけなければダメか」と語る等の圧力をかけている[7]。一橋出版は東日記の部分を差し替えるに至った[7]。笠原十九司は、名誉棄損裁判に藉口して、これら言論・出版・表現の自由を妨害するのが、板倉らの目的だったと、裁判での被告側意見書で述べている[7]。
1999年2月、肝不全のため死去。
主要著作
脚注
- 1 2 『現代物故者事典 1997~1999』(日外アソシエーツ、2000年)p.55
- ↑ 板倉由明 (1985). “松井岩根大将「陣中日記」改竄の怪”. 歴史と人物 (中央公論社) (冬): 319.
- 1 2 吉田裕 著、日本軍侵略中国調査訪中団 編『南京大虐殺研究札記』1986年。
- 1 2 『南京事件を考える』大月書店、1987年8月20日、68頁。
- ↑ 『加害と赦し 南京大虐殺と東史郎裁判』現代書館、2001年6月25日、347頁。
- 1 2 板倉由明『本当はこうだった南京事件』(1999年)第七章 近代文芸社
- 1 2 3 4 5 6 『南京大虐殺 記憶の暗殺』(新装)世界知識出版社、2008年4月27日、68-73頁。