板沢峰生
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我孫子高では、2年次の1978年に当時1年生であった和田豊と三遊間を組んで夏の甲子園に出場した。
1979年オフ、チームメイトの仲野和男(外野手)と共にドラフト外で西武ライオンズに入団した。
1年目の1980年、二軍でイースタン・リーグ公式戦39試合に出場[1]、打率.238、2本塁打、9打点の成績を残し、守備でも堅実なフィールディングを見せ注目されていた。しかし千葉県の自宅に帰省していた同年オフの12月2日、突然気分が悪くなって我孫子市の病院に入院し、急性心不全のため翌3日に死去した(19歳没)[2]。将来を嘱望されていた若手の現役選手の突然の死に西武は1981年以降板沢の入団10年目に当たる1989年に至るまでの9年間、板沢の背番号59を欠番とした。