板野道夫
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経歴
生い立ち
1902年(明治35年)岡山県吉備郡秦村(現:総社市秦)の板野柳一の長男として出生[1]。その後、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学する。同期には、京城帝国大学教授となる森谷克己がいた。1921年(大正10年)同校を卒業し、第六高等学校文科乙類へ進学する[5]。森谷と同じクラスであった。1924年(大正13年)同校を卒業し、森谷は東大法学部へ、板野は京都帝国大学法学部へそれぞれ進学した[6]。1927年(昭和2年)3月に同校を卒業する[7]。
電気会社へ就職後
板野は大学卒業後、直ぐに京都電燈へ入社する。庶務課庶務係となった[8]。この翌年である1928年(昭和3年)に板野に転機が訪れる。同郷の高梁中学の先輩である田邊隆二(後の京都電燈社長)が逓信省を退省して京電の常務取締役となった。これにより、板野は出世コースを歩むことになる。1935年(昭和10年)6月、板野が32歳のとき、満州国新京市にある山佐土地建物株式会社の監査役となる[9]。その後、1937年(昭和12年)には、34歳で早くも京電の庶務課長となる[10]。その後同年には、同社の伏見支店長となった[11][12]。
京電時代はこのまま伏見支店長を続けていたが、1942年(昭和17年)に国主導の戦時配電統制令によって50年以上続いた京電は解散となる。その後、京電の設備は全て関西配電に引き継がれ、その初代社長に同郷の先輩である田邊隆二が就任する[13]。板野は、関西配電京都支店の秘書課長となり、田邊社長をサポートした[14][1]。また、大政翼賛会の京都市支部参与にも就任する。[14]その後、同社の東京及び上京配電局長を経て、第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)、板野が43歳で関西配電取締役に就任し、京都支店長となった[1]。
板野は、大政翼賛会に所属していたが奇跡的に公職追放を免れている。1951年(昭和26年)には関西配電が解散し、後継会社の関西電力が誕生する。また、同年には電気事業関係の出版社であるオーム社の理事にも就任した[4]。翌、1952年(昭和27年)には、関西電力本店常務へ昇進した[15]。尚、同社の副社長は森寿五郎(旧制高梁中学の先輩)であり、田邊亡き後、板野は森寿五郎を経営面で支えた。1957年(昭和32年)には、関西配電から11年務めてきた取締役を54歳で退任する[16][17]。
その後、すぐに関西電力と取引があった碍子製造企業の大阪陶業(後の大トー)の社長へ招聘される。1962年(昭和37年)には同社の会長に就任し、後任の藤田友次郎へ実権を譲った[18][19]。1965年(昭和40年)板野が62歳のときには、会長を引退し大阪陶業の相談役に就任した[20]。この後、関電興業(現:関電プラント)の監査役も務める[21]。
取締役退任後も板野は精力的に活動していたが、1969年(昭和44年)3月28日午後7時30分、慢性すい臓炎で死去した[3]。享年66歳であった[3]。