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林文碩

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林 文碩(イム・ムンソク、朝鮮語: 임문석、1901年12月3日[1]または1903年12月3日[2][3] - 1971年6月24日[4]または1976年6月24日[1])は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の官僚、弁護士、実業家、政治家。雲山郡・宣川郡郡守、第4・5代韓国国会議員を歴任した[1]。親日反民族行為者[3]。日本名は林 文茂[5]。

経歴

慶尚北道永川郡永川面(現・永川市)出身。1930年京城帝国大学法文学部法科卒。1930年から平安北道内務部地方課・産業課を経て1933年高等文官試験行政科・司法科合格。平安北道知事官房勤務を経て1934年から雲山郡守、宣川郡守、黄海道産業課長、全羅北道内務部地方課長、光州税務監督局間税部長、忠清南道参与官・産業部長・鉱工部長、全羅南道財務部長を務めた。解放後は全羅南道内務局長、第2・4代大邱弁護士会(現・大邱地方弁護士会)会長[6]、韓国民主党慶尚北道党最高委員、大邱新報社長、慶北大学校連合後援会会長、民主党慶尚北道党委員長、新韓党政務委員を務めた[3][1][2]。

1971年6月24日、大邱市内の自宅にて持病の肝硬変により死去。享年69[4]。

人物・エピソード

おとなしく学究的だが、自身の信念に向かい猛烈に進む粘り強さと度胸を持つ人物であった[2]。

戦前に反日闘争の経歴もあったが[2]、日中戦争への協力が評価されたことにより、1940年に勲六等瑞宝章を受章した[3]。

第3代総選挙の選挙運動中、聴衆に拍手をしないように呼びかけた[7]。

第4代総選挙では民主党の候補として出馬したが、開票時にかなりの混乱があり、「ピアノ式不正開票」により自由党の李雨茁に敗れて落選した。しかし、同年7月に再検票により林が2,800票差でリードしたことがわかり、判決により李の当選無効が確定して林が逆転当選した[3][8][9]。

脚注

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