林文雄
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林 文雄(はやし ふみお、1900年11月26日 - 1947年7月18日)は、日本の医師。全生病院(国立療養所多磨全生園)、国立療養所長島愛生園、国立療養所星塚敬愛園(園長)に勤務し、国立療養所大島青松園で、病気療養をした。特に光田健輔を助け、光田反応を完成させた。クリスチャン、ヒューマニストであり、南九州、とくに奄美、沖縄のハンセン病患者救済に取り組み、理想の療養所建設に力を注いだが、志半ばで病に倒れた。
教育と勉強
父の竹治郎は生涯を教育者として過ごした熱心なクリスチャンで、自身もクリスチャン。北大医学部第1期生として学んでいる時病理の講師の藤井保かららい病院や光田健輔のことを聞き決意した。光田に就職希望を伝えるとまず外科を学べと言われ、1927年に全生病院に入った。光田の研究を継承して『らいにおける皮膚反応』を完成させ、学位を得た。1930年光田の片腕として長島愛生園の医務課長となった。1935年10月星塚敬愛園長となった。1936年3月末、光田の下、一緒に働いてきた大西富美子と結婚した。妹の百合子(女医)は光田の三男横田篤三の夫人でもあり、光田と特別な関係にあると言っていい。
著書
- 『世界の癩を訪ねて』長崎書店、1934
- 『林文雄句文集』大島青松園林記念文庫、1950
- 『天の墓標 林文雄句文集』土谷勉編 新教出版社、1978
- 翻訳
- V.L.ジャックス『モロカイのマザー・マリヤンヌ』長崎書店、1938
功績
光田反応を研究し、病型問題に理解があった林は、1938年にカイロで開かれた第4回国際会議で前回のマニラ会議のcutaneous, neuralという誤りを指摘し、lepromatousとtuberculoidという病型をWadeと共に作った。最終的にはlepromatous と neuralに分け、後者の亜型にanesthetica, simple macular, tuberuculoid とした。ここで特筆すべきことはカイロの学会より8年早い1930年1月10日の全生病院のカルテにtuberculoidが病名として記載されていることで、これは1923年ストラスブルク会議で光田が斑紋らいの類結核性と強調した以来の日本の専門家の伝統を示すものである[2]。