林柳波

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林柳波(1937年)

林 柳波(はやし りゅうは、1892年明治25年〉3月18日[1][2][3] - 1974年昭和49年〉3月27日[1][2])は、日本童謡作詞家詩人薬剤師。本名は林 照寿[1][2](はやし てるひさ[4][5][6][3]旧字体: 林 照壽)。沼田市名誉市民。兄は陸軍獣医少将の林里二[1][2][4]。作詞は1千編を超え、レコードに吹き込まれたものは500余りあるとされる[1][2]

1892年明治25年)、群馬県利根郡沼田町材木町(現・沼田市)の農家・林菊三郎の三男として生まれた[1][2]。父菊三郎は帰農はしていたものの階級は士族であったという[3]。早くから雑誌へ童謡詩の投稿を行う文学少年だった[7]1905年(明治38年)沼田小学校高等科を卒業[1][2]。県立前橋中学校利根分校(現・群馬県立沼田高等学校)に学ぶが中退し[3]、兄・里二を頼って上京[1][2][4][3]。旧制獨協中学校を経て、1910年(明治43年)明治薬学校(現・明治薬科大学)を卒業する[1][2]薬剤師の国家試験に合格すると、やがて明治薬学校の講師となった[1][2][4]

他方、1911年(明治44年)から東京本郷で薬局を開業。1916年大正5年)に最初の結婚をし柴田家の婿となったが、翌年死別した[3]。また、健康上の理由をきっかけに宗教・哲学にも興味を持ち、神霊万能を説く「健全哲学(哲理療法)」の普及活動を行ったこともあった[7]

1919年大正8年)1月13日、9つ年上の未亡人、日向(ひなた)きむ子と再婚[7]。きむ子は大正三美人の1人として名高く、代議士日向輝武の妻で、社交界の花形だった。きむ子はその美貌を看板に化粧品の製造・販売も行っており、柳波は薬剤師として化粧品の改良に助言を行うことなどで、きむ子との繋がりを強めたと思われる[8]。きむ子は夫輝武との間に既に6人の子があったが、輝武は疑獄事件(大浦事件)に巻き込まれ、1918年(大正7年)5月28日、狂死。夫の死から1年も経たぬうちの再婚は、夫の死で世間の同情を集めていたきむ子の評判を落とした。折りしも1月5日、愛人島村抱月を追って自殺した松井須磨子と比較されて一大スキャンダルとなったが、柳波は渦中のきむ子をよく支えた。柳波ときむ子は本郷にあったきむ子の化粧品店「瓢々堂」に新居を構え、2人の女児をもうけた[8]

1918年(大正7年)、鈴木三重吉が創刊した『赤い鳥』を契機に童謡運動が盛んとなった。童謡の代表的詩人として知られる野口雨情の依頼により、林きむ子は1925年(大正14年)頃から童謡に振付けを行い、雑誌『金の星』に写真入り解説の掲載を始めた[9]。これが縁となって、林柳波も雨情の影響で再び詩作を行うようになり、娘たちと共に公演旅行を行って「童謡舞踊」を広めたきむ子と共に、童謡運動に貢献した[10]。レコード作家としての才能も開花させ、1929年昭和4年)、ヒコーキレコードから「まぼろしの泉」で作詞家デビュー[要出典]。その後、「ああ我が戦友」、「野営の夢」などの軍国物から、「田植歌」、「お六娘」などのオペラを幅広く作詞。

昭和に入ると童謡運動は下火となったが、柳波は詩集の出版を行う一方、1937年(昭和12年)、音楽著作権協会設立委員、文部省国民学校教科書芸能科編纂委員となった[11]。当時文部省唱歌は作者名を公表しないことになっていた。柳波は、野口雨情の弟子、権藤花代の童謡詩『タナバタサマ』が選考に漏れたのを補作して委員会で再議し、採用された[11]。これは後に、第二次世界大戦後、作者名が公表されるに及んで、林柳波が盗作疑惑を受ける原因となった[11]

1945年(昭和20年)4月13日に空襲を受け、娘の療養先であった長野県上高井郡小布施村(現小布施町)に疎開[12]。請われて地元の校歌や青年団歌、『小布施音頭』などを作詞し、小布施村公民館の初代館長にもなった[13]1949年(昭和24年)、帰京[14]。しかし、このころから次第に妻きむ子と疎遠になり、他の女性との間に子ができるに至って別居[15]。以後、きむ子に繋がる童謡関係者との交友を断った[15]

1950年(昭和25年)、明治薬科大学の図書館長に就任[14]。また日本詩人連盟相談役、日本音楽著作権協会理事などを歴任した[1][2]1972年(昭和47年)、勲四等瑞宝章受章[1][2][14]

妻の林きむ子は、1967年(昭和42年)に死去[14]。林柳波は1974年(昭和49年)に死去。

1989年平成元年)沼田市名誉市民に顕彰された[5][6]1999年(平成11年)、林柳波の功績を顕彰するため童謡詩対象の文学賞として柳波賞が創設された[5]。主催は群馬県沼田市、沼田市教育委員会。

主な作品

作詞

口語訳等

団体歌

  • 明治薬科大学学歌(作曲:古関裕而) 
  • 利根沼田学校組合立利根商業高等学校校歌 作詞[1][2]
  • 沼田市立沼田小学校校歌 作詞[1][2][4]
  • 沼田市立升形小学校校歌 作詞[1][2](作曲:井上武士)[16]
  • 横浜市立根岸小学校校歌 作詞(作曲:井上武士)
  • 横浜市立戸部小学校校歌 作詞(作曲:井上武士)
  • 長野市立下氷鉋小学校校歌 作詞(作曲:井上武士)
  • 小布施村青年団歌(作曲:井上武士)[13]
  • 東京都板橋区立蓮根小学校校歌 作詞(作曲:河西一真)

著書

脚注

参考文献

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