林爽文事件

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林爽文事件(りんそうぶんじけん)とは、1786年乾隆51年)に台湾で発生したに対する反乱。日本では林爽文の乱ともいわれる[1]。清治下の台湾における最大の反乱であり、林爽文を首領とする勢力は独自政権を樹立したが、1787年(乾隆52年)に平定される[1][2]

1786年(乾隆51年)に、天地会を弾圧する台湾府知府孫景燧に対して、同会の幹部である林爽文が1,000人余を率いて反乱を起こし、彰化を占領する[1][3]。林爽文は自らを「順天盟主大元帥」と称し、年号を「順天」と定め、彰化に盟主府を置いた[1][4]。同時に台湾南部で決起した荘大田とも手を結び、台湾全土を勢力下におさめる[1][2]

漢民族・非漢民族を合わせ数十万人規模の勢力を誇ったが、清が派遣した福康安によって順次陥落していき、1787年(乾隆52年)に鎮圧される[1][2]。林爽文も捕らえられ、1788年(乾隆53年)に北京で処刑される[1][2]。清治下の台湾における最大の反乱であり、『御製十全記』では乾隆帝の十全武功の一つとして本反乱の平定を挙げている[2][4]

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