柳家小はん (初代)
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| 初代 | |
| 本名 | 鶴見 正四郎[1][2] |
|---|---|
| 生年月日 | 1885年 |
| 没年月日 | 不詳年 |
| 師匠 | 三代目柳家小さん |
| 名跡 | 1.(不明) (? - 1911年) 2.柳家小太郎 (1911年 - ?) 3.柳家さん喬 (不詳) 4.初代柳家小はん ( - ?) |
| 活動期間 | 不明、文献で確認できるのは1911年から1947年まで |
| 活動内容 | 落語家、幇間[3][4] |
| 所属 | 三友派 (参加時期不詳) 東京寄席演芸株式会社 (? - 1923年) 落語協会 (1923年 - 1925年) 落語革新派 (1925年 - 1926年) 日本芸術協会 (参加時期不詳) |
初代柳家 小はん(1885年[2][5][注釈 1] - 没年不詳[1][2]、本名:鶴見 正四郎[1][2])は、落語家。東京と上方の両方で活動歴がある。
三代目柳家小さんの門下で[1][2]、1911年(明治44年)の『柳連一覧表』という資料には柳家小太郎として掲載されている[1][2]。その後上方に移って柳家さん喬を名乗り[1][2]、大八会の幹部となっていた[1][2]。
1918年(大正7年)に来阪した三代目小さんに詫びを入れ、柳家小はんの名を授かった[1][2]。関東大震災後に東京に戻り[1]、1924年(大正13年)11月に東京で真打披露を行った[1][2]。
1925年(大正14年)8月には三代目三遊亭圓楽(後の林家彦六)、四代目柳家小山三(後の五代目古今亭今輔)らと新団体の落語革新派を結成したが[6][2][7]、新団体は失敗し翌1926年(大正15年)の1月に解散した[7]。
落語革新派が解散した後の小はんの動向はほとんど判明していないが[6][2]、以下のように断片的な情報が残っている。
- 1926年2月1日の『読売新聞』夕刊に小はんの『雲かご』(蜘蛛駕籠)の口演筆録が掲載されており、小はんの顔写真も添えられている[8]。経歴や近況等の記載はない。
- 渋沢秀雄が『演劇界』の1944年(昭和19年)9月号に寄稿した寄席鑑賞記には、人形町末廣で小はんの演じる『時そば』の現代版改作と百面相の芸を観たとの記述がある[9]。
- 戦後の1947年(昭和22年)の日本芸術協会の連名に小はんの名前もある[6][2]が、出演記録等は見当たらない。
複数の落語関係者が、小はんは後に幇間に転職したと述べている。