柳川真文
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佐賀県出身。東京府立一中、弘前高等学校(旧制)を経て、1927年東京帝国大学法学部卒業後、検事任官。同期の井本臺吉、馬場義続らと共に3羽ガラスと称されていた。一期下に田中萬一がいた。戦後、司法省が法務庁、さらに法務府と組織改編がなされたのに伴い、佐藤藤佐のあとを受けて最後の法務府の法務総裁官房長に就任した。
その後、横浜地検検事正、東京地検検事正(1955年1月-1957年8月)に就任。以後、札幌高検(1957年12月-)、福岡高検(1960年4月-)、名古屋高検(1962年8月-)、大阪高検(1964年1月-1966年3月)の各検事長についた。
東京帝国大学の学生時に穂積重遠の講義を受け、法を真に理解するためには、単に現行の条文をなぞるだけではなく、その歴史的背景(ローマ法など)や法の精神を学ぶ必要があるの教えを受けている。「法は現行法を通って現行法の上に出る」という言葉を引き、法解釈においては現行法の枠組みを理解しつつも、それを超えたより高次で正しい法の姿を目指すべきであると主張した[1]。
第二次世界大戦後間もない時期、少年犯罪が多発する中で、従来の精神論や訓育一辺倒の更生策では不十分であるという認識から、「医学的治療を主体とした少年院」の必要性が痛感された。当時の医学界・法学界の権威である東京帝国大学医学部精神病学教授・三宅鉱一、内村祐之を招いた協議会で検討し、特に人数が多く対応が急がれていた精神薄弱の少年を収容し、心理学的・治療的・教育的に処遇することが決定、当時の司法次官らと共に、医療施設としての機能を持つ日本初の医療少年院(東京医療少年院)の設立に奔走した[2]。
中央保護審査会委員長として保護観察制度の整備に従事した。勲一等瑞宝章(1973年)
父は柳川勝二(大審院部長、東京帝国大学法学部講師、早稲田大学教授)。母の眞琴は黒川真頼(東京帝国大学教授)の長女。兄は柳川昌勝 (大審院判事)。[3]
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