桃井義助 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 平安時代末期 - 鎌倉時代前期生誕 不詳死没 承久3年6月12日(1221年7月3日)別名 足利義助、通称:足利次郎 凡例桃井義助時代 平安時代末期 - 鎌倉時代前期生誕 不詳死没 承久3年6月12日(1221年7月3日)別名 足利義助、通称:足利次郎官位 左兵衛尉、兵部少輔幕府 鎌倉幕府氏族 桃井氏父母 父:足利義兼兄弟 畠山義純、義助、義氏、藤原親兼室、野田朝氏室、園田成実室子 義胤テンプレートを表示 桃井 義助(もものい よしすけ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。通称を足利次郎といい、足利義助とも表記する。官位は左兵衛尉、兵部少輔。桃井氏の祖。 足利義兼の次男として誕生。畠山義純の異母弟で義氏の庶兄。 父同様に鎌倉幕府に仕える。承久3年(1221年)に勃発した承久の乱において幕府方の将として出陣し、宇治川における幕府軍と朝廷軍の会戦の際、6月12日に戦死を遂げた[1]。または6月15日とも伝わる[2]。 上野国群馬郡桃井郷(群馬県榛東村大字山子田字御堀)に桃井城を築き、桃井を名乗ったとされる。義助の死後、その遺児である義胤は正式に桃井郷の地頭となり、桃井を苗字とした。子孫は桃井氏として存続し、足利一門の一家として室町幕府の草創に参加した。 系譜 父:足利義兼 母:不詳 妻:不詳 生母不明の子女 男子:足利義胤 - 義兼の養子 脚注 [脚注の使い方] ↑ 『尊卑分脈』〈清和源氏義家流〉 ↑ 『鑁阿寺新田足利両家系図』 Related Articles