桃源瑞仙

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桃源瑞仙(とうげんずいせん、永享2年6月17日1430年7月7日) - 延徳元年10月28日1489年11月20日[1])は、室町時代臨済宗[2]相国寺住持[2]五山文学[2]。『史記』の注釈書『史記抄』(史記桃源抄)、『易経』の注釈書『百衲襖』(ひゃくのうおう)など漢籍抄物で知られる[2]

「桃源」は道号、「瑞仙」は法諱[3]に「蕉雨」「卍庵」「竹庵」「春雨庵」など[2]

永享2年(1430年)6月17日近江国市村(現滋賀県愛荘町[4])の下級武士の子として生まれる[3]永源寺派の慈雲庵で出家僧童となったのち、嘉吉文安年間に相国寺勝定院で剃髪[3]易学竺雲等連瑞渓周鳳に、『史記』を竺雲等連・綿谷周瓞牧中梵祐に、『漢書』を竺雲等連に、『礼記』を一条兼良清原業忠に学び、雲章一慶の『勅修百丈清規』講義も受ける[3]

応仁元年(1467年)に応仁の乱が起こると、横川景三と慈雲庵に避難する[3]。のち横川・景徐周麟と永源寺に移住し小倉実澄の厚遇を受け、易学や『史記』の講義・著述を始める[3]

応仁の乱後、文明13年(1481年)に等持寺住持となる[3]。文明18年(1486年)相国寺の住持となり、夢窓疎石をまつる開山塔崇寿院の塔主を兼帯する[3]。一ヶ月後に相国寺住持を退き崇寿院に帰るが、長享2年(1488年)足利義政逆修十三回忌を修した後、延徳元年(1489年)相国寺に四ヶ月再住[3]。同年10月28日、60歳で示寂[3]

著作・学問

関連文献

脚注

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