桑原武夫蔵書廃棄事件

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桑原武夫蔵書廃棄事件(くわばらたけおぞうしょはいきじけん)は、フランス文学者文化勲章受章者の桑原武夫(1904–1988)の遺族が京都市に寄贈した蔵書約1万421冊を、京都市図書館が2015年12月に無断で廃棄していたことが2017年4月に発覚した事件である[1][2]。日本の公共図書館における寄贈資料の管理体制、個人文庫の保存思想、および図書館・文書館・博物館(MLA)連携の制度的課題を浮き彫りにした事例として、図書館史上重要な位置を占める[3]

桑原武夫の学問的位置

桑原武夫は京都大学人文科学研究所教授(1948–1968)および同研究所第3代所長(1959–1963)を務め[4]人文科学における学際的共同研究の先駆的指導者として知られる[5]スタンダールルソーなどのフランス文学・思想研究を基盤としつつ、研究対象は芸術・思想・社会・教育など文化全般に及んだ[5]。『ルソー研究』(1951年、毎日出版文化賞)、『フランス百科全書の研究』などの共同研究の成果を通じて、梅棹忠夫梅原猛鶴見俊輔上山春平多田道太郎ら多くの文化人を育て[6][7]、「新京都学派」を代表する学者と位置づけられる[4][3]。1987年に文化勲章を受章[4]。京都市名誉市民でもあった[5]

蔵書の二層構造

桑原武夫が1988年4月に83歳で死去した際、その蔵書は二つに分けられた。学術的価値が特に高い文学関係文献は京都大学人文科学研究所に移され、同研究所図書室の蔵書の一部として「桑原文庫」の名で保存されている[8]。人文科学研究所は桑原文庫について閲覧利用のみ可能としている[9]

一方、和漢洋の古典や文学、哲学、風俗に関する書籍、全集類、フランス語の哲学・政治の原書など約1万421冊は、桑原の幅広い知的関心を物語るコレクションとして、京都市に寄贈された[6]

寄贈から廃棄までの経緯

国際交流会館時代(1988–2008)

蔵書は1988年に京都市が譲り受け、翌1989年に開館した京都市国際交流会館左京区)に書斎を再現した「桑原武夫記念室」を設け、一般公開された[1]。京都市国際交流会館は市制100周年記念事業・平安建都1200年記念事業の一つとして建設された施設であり、桑原の蔵書はその文化的象徴として位置づけられていた。

右京中央図書館への移転と未登録問題(2008–2009)

2008年、京都に関する資料を収集する機能を備えた右京中央図書館(右京区)が新たにオープンした。これに合わせて桑原武夫記念室は同館に移設されたが、蔵書については京都市図書館全体の既存蔵書と重複が多いとして正式な図書登録がなされなかった[3]。蔵書は右京中央図書館に収容されず、旧右京図書館で保管された後、2009年4月に向島図書館(伏見区)の2階倉庫に段ボール箱に入れた状態で移された[3]

この「未登録」という事実は後の廃棄を制度的に可能にした構造的要因である[3][10]。正式に蔵書台帳に登録されていれば、除籍には所定の手続きを要したはずであるが[注 1]、未登録のまま6年間にわたり倉庫に放置されたことで、組織内での存在認知が薄れていった[10][11]

廃棄の決定と実行(2015年12月)

2015年、向島図書館の改修工事に際して、寄贈の経緯を知らない同館の職員から、倉庫内の蔵書について廃棄すべきかどうか、蔵書の管理を担当していた右京中央図書館の副館長(当時57歳、女性)に相談があった。この副館長は桑原武夫の蔵書であることを認識していたが、2008年以降の問い合わせが1件しかなかったこと、蔵書の目録を保存しておけば対応できると考えたことなどから、一時保管する場所が確保できないとして廃棄を了承した。その際、上司への相談も、遺族への意向確認も行われなかった。2015年12月、約1万421冊の全てが廃棄された[2]

廃棄の具体的方法(溶解処分、焼却処分、あるいは古書業者への売却等)は公式には明らかにされていない。事件発覚後、古書市場に桑原蔵書が流通したという情報は確認されておらず、溶解処分であった可能性が指摘されている[12]

発覚(2017年2月–4月)

2017年2月、市民から「桑原武夫の蔵書を閲覧したい」と右京中央図書館に問い合わせがあった。対応した職員が「廃棄した」と回答したため、市民が京都市教育委員会に連絡し、調査の結果、無断廃棄の事実が確認された[10]

2017年4月27日、京都市教育委員会は事件を公表し、元右京中央図書館副館長を減給10分の1(6カ月)の懲戒処分とするとともに、部長級から課長補佐級への降任処分を行った[2][1]。在田正秀教育長は「ご遺族はもとより、寄贈にご尽力いただいた関係者と市民の皆様に心からおわび申し上げます」とのコメントを発表した。遺族は「役立ててもらおうと市に預けたのに、なぜそんなことになったのか分からない。残念です」と述べた[13]

廃棄された蔵書と残存資料

失われたもの

廃棄された約1万421冊は、日本文化研究、日本と世界の名著などの全集類、政治や哲学のフランス語原書など、桑原の百科全書的な知的関心を反映した蔵書群であった。個々の書籍の内容面では京都市図書館の既存蔵書との重複があったとされるが、蔵書印、書き込み、付箋、折り込みなど、桑原の思考の痕跡は代替不可能であった。学者の思想形成や他の学者との影響関係を研究するうえで、こうした痕跡は一級の学術資料となりうるものであった[3]

残存するもの

蔵書目録は廃棄を免れており、どのような書籍が含まれていたかという情報自体は追跡可能である[3]。ただし、物としての本が持っていた書き込み等の情報は永久に失われた。

京都大学人文科学研究所には「桑原文庫」として学術的中核部分が現存しており、閲覧利用が可能である[8]

右京中央図書館には「桑原武夫コーナー」が設置されており、2017年時点で生前に使用していた机、椅子、直筆のノートなど遺品約20点が展示されている[1]。ただし、これは蔵書ではなく記念展示・遺品展示である。

事件の構造的要因

未登録状態の長期化

蔵書が正式な図書登録をされないまま倉庫に保管されたことは、組織的な管理体制の外に置かれたことを意味する。登録されていれば除籍手続きに複数段階の確認が必要であったが、未登録の「預かりもの」は制度上の保護を受けられなかった[3]

「利用実績」基準の不適切な適用

公共図書館の蔵書管理では「利用実績」が重要な指標とされるが、個人文庫のように参照頻度は低くても文脈的価値が高い資料群に対して、一般蔵書と同一の利用実績基準を適用することの問題性がこの事件で明らかになった。副館長は「2008年以降の問い合わせが1件のみ」であったことを廃棄判断の根拠の一つとしていたが、そもそも未登録で所在情報が外部から容易にたどれない状態に置かれた資料に対して利用実績を問うこと自体が循環的な論理であるとの批判がある[12]

組織内の知識継承の断絶

寄贈の経緯を知らない向島図書館職員が廃棄を相談したこと、また副館長が単独で判断を下したことは、個人の知識に依存する属人的な管理体制の脆弱性を示している。約30年の間に担当者が入れ替わる中で、蔵書の由来と意義についての組織的記録・引き継ぎが機能しなかった[2]

公共図書館の守備範囲の問題

公共図書館は基本的に地域住民への資料提供サービスを主要機能としており、特定の学者の蔵書群をその知的文脈ごと維持する専門的機能を十分に備えていない場合が多い。学術的核心部分は京都大学が保管し、それ以外の部分を公共図書館が引き受けるという当初の役割分担は、結果的に後者の部分を制度的保護の薄い場所に置くことになった[3][6]

図書館史上の意義

寄贈資料管理の制度的欠陥の可視化

この事件は、「寄贈された本は当然保存される」という社会の期待と、公共図書館の実際の運営能力との間の乖離を全国レベルで可視化した。『情報管理』誌に掲載された論文は、この件を寄贈本をめぐる制度的な欠陥が表面化した事例として位置づけ、学者の蔵書が図書館・文書館・博物館の「制度のすき間」に落ちると失われうると分析した[3]

個人文庫の「文脈」をめぐる問題提起

桑原武夫の蔵書は、単なる書籍の集合ではなく、どの本を持ち、どう読んだかという知的営為の体系を反映する資料群であった。この事件は、個人文庫を一冊ずつの「流通資料」として扱うのか、一体の「文脈つき資料群」として扱うのかという根本的な問いを突きつけた[3]

除籍手続きにおけるガバナンスの重要性

廃棄の判断が副館長一人の裁量で行われ、上司への報告も遺族への確認もなされなかったことは、除籍・廃棄が単なる内部実務ではなく、公開可能な基準と複数段階の確認を要する専門的判断であるべきだという認識を広く共有させた[2]

MLA連携の必要性

学者の旧蔵書や手稿のような資料は、公共図書館だけで抱えるには限界がある。図書館(Library)・文書館(Archives)・博物館(Museum)が役割分担して保存すべきだとする議論がこの事件を契機にあらためて提起された。桑原の蔵書も、学術的中核は大学が保存し、別の部分は公共図書館に託された結果、後者で破綻したという構図は、制度間連携の不在を端的に示している[3]

他の学者蔵書保存事例との比較

林達夫文庫(明治大学)

桑原事件の対極に位置する成功例として、明治大学生田図書館の林達夫文庫がある。林達夫(1896–1984)は自由主義思想家・芸術哲学者であり、元明治大学教授。その旧蔵書は哲学・思想・歴史・文化人類学・美術・演劇・語学・文学と多岐にわたり、林自身が研究上のテーマにしたがって分類配置していた。明治大学図書館はこの分類配置を尊重し、「思想や思索の過程を追跡できるよう配慮して」配架している。1991年には『林達夫文庫目録』が刊行された[14]

林達夫文庫の保存にあたっては、林自身の分類配置が尊重され、思想や思索の過程を追跡できるよう配慮して配架がなされている[14]。また『林達夫文庫目録』が1991年に刊行され[14]、閲覧は図書館スタッフによる出納制で運用されている[14]。こうした原秩序の尊重、目録の整備、閲覧体制の確立は、桑原蔵書が正式登録もされないまま倉庫に放置され廃棄に至った経緯[3][10]とは対照的である。

丸山眞男文庫(東京女子大学)

桑原事件の議論で同時代的に最も頻繁に参照された対照事例が、東京女子大学丸山眞男文庫である。政治学者・丸山眞男(1914–1996)の没後、1998年に遺族から東京女子大学に蔵書・草稿類が寄贈された。配架にあたっては「蔵書の配列順もまた丸山の思想を反映する」という考えのもと、丸山家における配列を可能な限りいかす方針がとられた[15]

丸山眞男文庫は、図書約5,800冊(書きこみ・折りこみのある図書、書斎・寝室・応接間にあった図書、その他貴重書)、雑誌約5,400冊、草稿類約8,200件を所蔵する[16]。書きこみのあるページはPDF化され閲覧可能であり、2015年には「丸山眞男文庫草稿類デジタルアーカイブ」が公開された。さらに「バーチャル書庫」として、丸山が生前に自宅に所蔵していた蔵書の配置をウェブ上で再現するシステムも構築されている[15]

丸山眞男記念比較思想研究センターは2017年から立命館大学加藤周一現代思想研究センター(加藤周一文庫を所管)と協力協定を締結しており、個人文庫間の連携という新たな段階にまで進んでいる[17]

丸山眞男文庫では、丸山家における蔵書の配列を可能な限り再現する形で配架がなされ[15]、図書約5,800冊のほか草稿類約8,200件が一体的に所蔵されている[16]。書きこみのあるページはPDF化されて閲覧に供され、2015年には草稿類デジタルアーカイブが公開された[17]。さらに丸山眞男記念比較思想研究センターが文庫の運営と研究活用を統括し[18]、2017年からは立命館大学加藤周一現代思想研究センターとの協力協定により個人文庫間の連携にも踏み出している[17]。原秩序の保存から機関間連携に至るまでの体系的な取り組みは、蔵書が正式登録されないまま廃棄に至った桑原事件の経緯[3]とは著しい対照をなしている。

高梁市の藤森蔵書返還事例

桑原事件とほぼ同時期の事例として、岡山県高梁市における藤森名誉教授の蔵書問題がある。高梁市では新図書館開設に伴う蔵書整理で、寄贈されていた蔵書の大半の廃棄が決定された。しかし、この場合は遺族が事前に廃棄の方針を知ることができ、すべての返還を求めた結果、2016年3月に全蔵書が返還された[3]。桑原事件では遺族が事後に知らされたのとは対照的であり、両者の明暗は、寄贈者・遺族への事前連絡という基本的手続きの有無によって分かれた。

反響と論評

事件が報道されると、新聞各紙が相次いで取り上げ[6][1][2]、インターネット上でも大きな議論を呼んだ[12]。報道や論評で取り上げられた主な論点には、以下のようなものがある。

第一に、京都市の管理責任を問う立場。桑原武夫は京都市名誉市民であり、蔵書を預かった以上、適切に管理する義務があったとする批判が多くみられた。「京都学派のお膝元」である京都市がこのような事態を招いたことへの驚きの声が上がった[12]

第二に、公共図書館の構造的限界を指摘する立場。大学でも教授の個人蔵書をまるごと受け入れることは容易ではなく、まして公共図書館に1万冊規模の蔵書を恒久保存する余力を期待すること自体に無理があるとする見方もあった[12]

第三に、蔵書の学術的価値の所在をめぐる議論。個々の本の内容は他の図書館にもある重複本であっても、蔵書印や書き込みなど「ある学者がその本をどう読んだか」の痕跡こそが学術資料としての固有の価値であるとする指摘が研究者から多くなされた[3]。一方で、稀覯本を除けば学術的に真に貴重なのは蔵書目録のほうであるとの見解もあった[19]

第四に、寄贈のあり方自体を問い直す議論。蔵書の寄贈先として受入れ能力のある大学図書館や専門機関を選ぶべきであったとする意見、あるいは寄贈よりも古書業者への売却のほうが結果的に資料の散逸を防げたのではないかとする見方も提示された[12]

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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