桜井潔

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桜井 潔(さくらい きよし、1911年1961年)は、昭和初期から、おもにタンゴ音楽の分野で活動した、日本ヴァイオリニスト[1]1935年に自身の楽団である、桜井潔とその楽団(当時の表記では、櫻井潔と其楽團)、スペイン語サクライ・イ・ス・オルケスタ (Sakurai y su Orquesta) を組んで、活動を始めており[1]アコーディオンの輸入を受けて、本格的なタンゴ楽団を結成した、日本で最初の人物とされている[2]

静岡県の旧家に生まれた[1]

東洋音楽学校(後の東京音楽大学の前身)に学んで、1932年以降、クラシック音楽のヴァイオリニストとして活動を始め、近衛秀麿が率いた新交響楽団(後のNHK交響楽団の前身)に参加して、コンサートマスターも務めた[1]

1935年桜井潔とその楽団サクライ・イ・ス・オルケスタ)を組み、以降はもっぱらタンゴ楽団の主宰者として活動するようになった[1]。楽団には、バンドネオン奏者として杉井幸一坂本政一が在籍し、タンゴをはじめとする外国曲を日本人向けに編曲したり[1]、逆に、日本の楽曲をタンゴ風に編曲して演奏した。

桜井の楽団は、赤坂溜池ダンスホール「フロリダ」などにも出演した[1]

毛利眞人は、戦時下にあってラジオやレコードでジャズなどが流れなくなった時期に、「軽音楽」としてポピュラー音楽のあり方を模索した音楽家として、長内端杉井幸一とともに、桜井の名を挙げている[3]

桜井の楽団は、第二次世界大戦後も、地方巡業でもラジオ放送などでも大きな人気を博していた[4]。当時の地方公演では「長崎物語」、「ハルピン夜曲」、「佐渡おけさ」といった日本の楽曲を求められることが多かったという[4]

NHKラジオでは、「希望音楽会」や軽音楽の時間などに出演していた[5]

1951年には、民間放送ラジオ放送局であったラジオ東京(後の東京放送、TBSを経て、TBSホールディングスの前身)の初期の番組『歌のない歌謡曲』に関わり、演奏を提供した[1]

桜井は、舞台上での身だしなみや振る舞いに厳しく、自らを律するだけでなく、楽団員にも規律を求めて、ステージ上の動作にも細かく指示を与え、地方公演ではステージに譜面台を持ち込ませなかったという[6]

ディスコグラフィ

桜井の活動時期はSPレコードの時代であり、多数の音源が残されたが、後にCDの時代となり、コンピレーションが発表されている。

脚注

参考文献

外部リンク

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