梁漢璋
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若くして勇気と力量で後唐の明宗に仕え、突騎指揮使を歴任した。後晋の天福2年(937年)、欽州刺史を遥領した。天福3年(938年)、検校司空を加えられ、護聖軍都指揮使に転じた。天福7年(942年)、検校司徒となり、閬州団練使を遥領した。天福8年(943年)、陳州防禦使に任じられ、少帝に従って澶州に赴いて帰った[1]。開運元年(944年)、侍衛親軍馬軍都指揮使をつとめた[2]。開運2年(945年)[3]、検校太保・鄭州防禦使に転じた。ほどなく永清軍節度留後となった[1]。開運3年(946年)、永清軍節度使に任じられた[4]。この年、少帝の命を受けて1000騎を率いて冀州に駐屯した。杜重威が北伐すると、漢璋は北面行営馬軍都排陣使をつとめ、淤口関の奪回に派遣された。11月、契丹の騎兵5000と清池県の北境で遭遇し、衆寡敵せず、流れ矢に当たって陣没した。享年は49。太尉の位を追贈された[5]。
弟に梁漢瑭があった[6]。