森寅雄
剣道家、フェンシング選手(1914 - 1969)
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生涯
生い立ち
群馬県山田郡桐生町新宿(現・桐生市新宿)に[3][1]、野間(旧姓・岡田)善次郎・ヤスの子として生まれる[1][4]。初名は野間 寅雄[1][2]。曽祖父は幕末の北辰一刀流玄武館四天王の一人である森要蔵[3][4]。寅雄の名は、要蔵とともに白河戦争で戦死した彼の息子(野間寅雄の大叔父)・森寅雄にちなんだものである[1][2]。母方の伯父は講談社創業者で野間道場を開設した野間清治。従兄(清治の長男)は後の講談社2代目社長野間恒。
1922年(大正11年)、寅雄は野間清治に引き取られ、東京府小石川区音羽の野間邸で恒とともに育てられることとなった[1][5]。清治の影響により幼少期から剣道を始め、大塚警察署道場、野間道場で鍛錬を積んだ[1][6]。野間寅雄が姓を改めて森寅雄を名乗るのは1929年(昭和4年)のことである[7]。
巣鴨中学校
小学校卒業後、1927年(昭和2年)東京府立第四中学校に入学した[8][9]。しかし同校では剣道に取り組む仲間がおらず、2学期から遠藤隆吉が校長をしていた巣鴨中学校へ転入する[8][9]。同校では高野慶寿(高野茂義の子)や荒木敬二、大野操一郎に剣道の指導を受けた[8][10]。1930年(昭和5年)に日本青年館で開催された第1回全日本中等学校剣道大会で巣鴨中学校が団体優勝を果たすのに大きく貢献した[11][10]。また1930年(昭和5年)には「昭和の剣聖」持田盛二が野間道場師範として招かれ、寅雄はその指導を受けることとなった[12][13]。1931年(昭和6年)、第6回明治神宮体育大会剣道競技(現在の国民体育大会に相当)で個人優勝を果たした[要出典]。
一方、従兄の恒は、小学校卒業後は父清治の意向で進学せず、帝王学ともいえる独自の教育を受けていた。そのため中学校の大会に出場した経験がなかった。清治は恒に試合経験を積ませるため、野間道場師範持田盛二の引率で千葉県銚子市にある格心館という道場へ試合に出向かせたことがあったが、同行した寅雄が先鋒として出場するや、格心館の門人36名をことごとく勝ち抜き、遂に恒の出番は無かった。
1932年(昭和7年)、巣鴨中学校を卒業[14][15]。明治大学からの誘いはあったものの、野間清治の意向で当時講談社傘下だった報知新聞社に入社する[15]。報知では社会部記者として桃色争議などの事件を担当し、その関係で同争議の中心人物だった水の江瀧子との仲を噂されたこともあったという[16]。
天覧試合予選
1934年(昭和9年)、天覧試合の東京予選に出場し、決勝(5人総当りのリーグ戦)まで勝ち進んだ。その相手の中に野間恒がおり、2人の試合は「事実上の決勝戦」と言われた[17][18][16]。この試合において、寅雄は蹲踞から立ち上がるなり、いきなり逆胴を決められ敗北した。この試合は、寅雄がわざと負けて勝ちを譲ったのではないかとの疑惑が生まれ、野間清治から恒のために負けるように詰め寄られたとの噂まで広まった。実際には「(寅雄と恒は)これまで何回か対戦したが、勝ったことがなく、従兄には、どうしても勝てないという先入観があった」というのが原因だったようだが、この結果野間清治と寅雄との関係が悪化し始める[16]。
同年5月、東京代表として天覧試合に出場した恒は優勝を果たし、「昭和の大剣士」と謳われた。
最初の渡米
1935年(昭和10年)、高崎の歩兵第15連隊に入営した後、満洲・公主嶺の戦車第4連隊で翌年まで軍隊生活を送る[19]。
1937年(昭和12年)、ハワイ経由でアメリカ合衆国へ渡る[20][21]。渡航の目的はアメリカにおける剣道普及と同時に、1940年東京オリンピックに備えてフェンシングの技術を習得し日本へ持ち帰ることであった[20][22]。寅雄はロサンゼルスに滞在し、南カリフォルニア大学のユーテン・ホーフにフェンシングの指導を受けた[20][23]。翌1938年、ロサンゼルス体育クラブ主将として南カリフォルニアサーブル選手権に出場し、優勝を果たす[20][23]。さらに南カリフォルニア代表として出場した全米フェンシング選手権では決勝戦でJ.R.ホフマンに敗れるものの準優勝という成績を残した[20][24]。決勝戦は、排日感状に由来する審判員の誤審によって敗れたともいわれる[20][24]。わずか6か月の練習で実質的な全米チャンピオンになったことはフェンシング界を驚愕させ、その強さと名前から「タイガー・モリ」と呼ばれた[20]。
またこの時期南カリフォルニア大学の卒業生のゴードン・ワーナーに剣道の指導を行い、持田盛二宛ての紹介状を書いたことで彼は来日しアメリカ人初の初段位を得ることとなった[25]。
本来はヨーロッパでもフェンシングを学ぶことが予定されていたとされるが、東京オリンピックが迫ったこともあり寅雄は1938年(昭和13年)に日本へ帰国する[26][27]。しかし日中戦争の長期化により東京はオリンピック開催を返上することとなり、代替地となったヘルシンキでの開催そのものも中止となったため、寅雄のオリンピック出場・メダル獲得という夢は潰えることとなった[28]。
その後は軍籍にあり、習志野教育隊で予科練士官学校卒業生に剣道を指導したほか、満洲・公主嶺の戦車学校へ転任する[26][27]。1938年10月、野間清治が急逝し、翌月には後任社長に就任した恒も死去する[26][29]。寅雄には恒の未亡人・登喜子(町尻量基の娘)との縁談の話も浮上したが、ロサンゼルスの日系二世・赤星貞子との結婚を決めており、1940年(昭和15年)に軍人会館で式を挙げた[30][31]。講談社の3代目社長となった野間左衛(野間清治の妻)は講談社を株式会社化し、その株主に含まれなかった寅雄が清治・恒の跡を継いで経営者となることはなかった[32]。
戦後
太平洋戦争中は故郷・桐生に妻子とともに疎開し、中島飛行機の軍需工場の下請けをしていた[33][34]。
終戦後は剣道を含む武道は禁止されたものの、寅雄は明治大学や中央大学でフェンシングの指導を行うようになった[33][35]。1947年(昭和22年)に日本フェンシング協会が森村義行を会長として再建されると、副会長に就任した[33]。
1949年(昭和24年)、前年に妻子が先に移っていたアメリカへ再び渡る[36][37]。1951年にはロサンゼルスで開催された太平洋沿岸地区のフェンシング大会で優勝し、日系人に明るいニュースを届けた[37]。
フェンシングの指導だけで食べていくことは難しく、当初はアメリカでの寅雄の生活は苦しかったが、1954年(昭和29年)からは大洋証券に勤務するようになった[36][38]。また戦前同様アメリカでの剣道普及にも取り組み、1955年(昭和30年)に米国剣道連盟を発足させ、会長に就任する[39]。実業面では大洋証券から独立し、リトル・トーキョーに森証券を設立した[40][41]。
1960年ローマオリンピックでは、アメリカフェンシングチームの監督を務めた[40][41]。また1964年東京オリンピック、1968年メキシコシティーオリンピックでもコーチを務める[40]。これらの大会に日本代表選手として出場していた大川平三郎は寅雄の弟子さらに娘婿となり、全米フェンシング選手権優勝を成し遂げた[42]。
死去
1969年1月8日夜、ロサンゼルス郊外ガーデナの道場で剣道指導中、心筋梗塞のため死去[42][43]。54歳、剣道八段[44]。死去にあたり全日本剣道連盟から剣道範士号を追授された[42]。葬儀は2月15日に東京・目黒の祐天寺で営まれた[42]。
アメリカへの剣道普及、世界剣道選手権大会の実現に尽力したが、第1回世界剣道選手権大会開催前年の死去であった。死の直前には真剣を持った寅雄の姿を映したネッスルのテレビCMの収録も終わり、全米放送が始まろうとしていた矢先で、寅雄の死によりその映像はお蔵入りとなってしまった[45][46]。
2013年日本人として唯一の国際フェンシング連盟(FIE)の殿堂入りを果たしその名を永遠に称えられることとなった。
年表
- 1914年 群馬県桐生市で野間寅雄として生まれる。
- 1922年 野間清治に引き取られる。
- 1927年 東京府立第四中学校に入学後、2学期に巣鴨中学校へ転入。
- 1928年ごろ 剣道初段[47]。
- 1929年 森家再興の為、森に改姓。
- 1929年 明治大学主催全国中等学校剣道大会優勝[47]。
- 1930年 第1回全日本中等学校剣道大会優勝。
- 1930年 明治大学主催全国中等学校剣道大会優勝[47]。
- 1931年 明治神宮体育大会中等学校優勝試合優勝。
- 1932年 報知新聞社入社。
- 1934年 天覧試合の東京予選決勝で野間恒に敗れる。
- 1935年 歩兵第15連隊、戦車第4連隊入隊。満州へ(1936年夏まで)。
- 1936年 剣道錬士六段[47]。
- 1937年 剣道普及のため渡米。南カリフォルニア大学でフェンシングを学ぶ。
- 1938年 南カリフォルニアフェンシング選手権で優勝。全米フェンシング選手権で準優勝。
- 1938年 東京オリンピック出場準備の為帰国。
- 満州で戦車隊入営、同年除隊。
- 1940年 東京オリンピック中止。赤星貞子と結婚。
- 1941年 太平洋戦争開戦。
- 1945年 桐生に疎開、終戦。GHQ命令により剣道が禁止される。
- 明治大学でフェンシングを教える。
- 1947年 日本フェンシング協会設立、副会長に就任。
- 1948年 中央大学体育課講師となり翌年までフェンシングを指導。
- 1949年 渡米。
- 1950年 アメリカ西部地区フェンシング大会で全勝優勝。
- 1951年 南カリフォルニア剣道有段者会設立、理事に就任[47]。
- 1951年 アメリカ西部地区フェンシング大会で全勝優勝。
- 1953年 日本で戦後から禁止されていた剣道が解禁。
- 1954年 大洋証券に入社。西ロサンゼルス剣道道場を創設。
- 1955年 アメリカ剣道連盟会長となる。剣道教士八段[39]。
- 1956年 第1回日米親善剣道大会アメリカチーム監督として参加。
- 1960年 ローマオリンピックでアメリカフェンシングチームの代表監督を務める。ブラジルへ渡る。
- 1962年? 大洋証券退社、森証券設立。
- 1964年 東京オリンピックでアメリカフェンシングチームのコーチを務める。
- 1966年 Muriel Bowerと共著でフェンシングの指導書『FENCING』[48]を出版[47]。
- 1967年 森証券を野村証券に売却。
- モリ・フェンシング・アカデミーを設立し後進の指導にあたる。
- ロサンゼルス市体育協会理事に就任[42]。
- 1968年 メキシコシティーオリンピックでアメリカ代表コーチを務める。
- 1968年 ネッスル社の全米放映テレビCM撮影(死去した為放映無し)。
- 1969年 剣道の稽古中に心筋梗塞を起こし死去(54歳)。剣道範士の称号を追授される。
- 1970年 第1回世界剣道選手権大会が開催される[47]。
- 2006年 南カリフォルニア剣道連盟が森杯剣道トーナメントを開催(3年に1回)[47]。
- 2013年 国際フェンシング連盟(FIE)設立100周年記念の殿堂に唯一の日本人として入る[49]。
森寅雄が登場する作品
図書
- 早瀬利之『タイガー・モリと呼ばれた男 幻の剣士・森寅雄の生涯』 スキージャーナル 1991年
- 新版『タイガー・モリと呼ばれた男 日米の架け橋となった幻の剣士・森寅雄』芙蓉書房出版 2021年。ISBN 4-8295-0813-2
- 野間清治顕彰会『剣に生きた森寅雄』フェンシングに賭けた剣道家、平成20年(2018年)10月 非売品
- 司馬遼太郎「アメリカの剣客」-『余話として』に所収 文藝春秋〈文春文庫〉、新版2020年
- 堂本昭彦『中山博道有信館』 島津書房 1993年 ISBN 4882180480
小説
- 富田常雄「アメリカ摩天街の英雄 剣豪野間」(『りべらる』1950年4月)
漫画
- 松田尚正『タイガー・モリと呼ばれた男』、講談社
ラジオ
テレビ
DVD
- 『昭和の剣豪』、クエスト