森山氏は安東氏の庶流。
陸奥津軽深浦郷[1]森山館主であった季定は、天文15年(1546年)、安東尋季に謀叛を起こし森山館に籠城するが、攻め寄せた尋季と、増援に来た蝦夷の被官蠣崎季広に館を包囲され落城、季定は自害した。
安藤義季の子、安藤季丸は1521年8月に種里に伏蛇城を築き、奈良兵衛之助を城代として1523年に種里八幡宮を建立した。季丸は長じて泰山太主光信と称した。光信の重臣に森山飛騨守季定がいた。彼は、安藤家の宗家を安藤政季が継いだことを残念に思い、自分を森山城主に推挙し、密かに政季討伐をはかり、政季の臣長木大和守と気脈を通じ、政季を河北糠之城で打首にした。それによって森山季定は討伐対象にされた[2]。
出羽国河北郡深浦森山の館主の飛騨弾守季定が1546年(天文15年)春に安東氏に背いて討たれたという記録が、松前藩の歴史書『新羅之記録』にある[3]。
飛騨季定(ひだすえたか)が謀反を起こすと、これに檜山城より安東尋季[4]親子が押し寄せて来た。蠣崎季広は搦手の大将として参加する、急の飛脚が告げられてきた。季広は人数をそろえ、船に乗り連ね小泊に渡り、3月5日には森山に到着した。同15日、館の内より水桶を担いで出入りする者を見て、遥かに館の麓からこれを射つと、矢は当たり後ろから胸板を射通した。森山の館は程なくして落城した。生け捕られた者どもから「館内には水が無く、敵方に悟られない様にと水を汲む真似をしていたところ、射殺された」と聞いた。敵方の落城はこれが原因であったという。季広の朝臣の矢一つによって、飛騨季定を自害に追い込んだのである。この弓は細い竹を組み合わせた細箔[5]という[6]。